生きてると疲れる

東京都、26歳、会社員。これまでと、このさき。

ラブポーションサーティワンとチョコレートミント

今週のお題「好きなアイス」


僕の好きなアイスといえば、あれだ。サーティワンアイスクリームのラブポーションサーティワンと、チョコレートミント。この2つ。

サーティワンアイスクリームは31日を「サーティワンの日」として、ダブルのアイスクリームを31%OFFで売っている。僕がサーティワンに行くのはサーティワンの日か真夏の雪だるま大作戦かチャレンジザトリプルか募金すればシングル無料のときくらい。だから、必然的に僕のアイスの基本はダブルだということになるのである。ラブポーションサーティワンとチョコレートミント。この2つ。

31日になると、サーティワンアイスクリームにアイスを食べに行くのが我々母娘のお決まりだった。僕が中学生くらいのときから、ずっとずっと、それが続いている。ちょっとしたお楽しみイベントとしてそれは存在していて、僕が上京して母と別々に暮らすようになっても「31日だからサーティワンに来てるよ!」「わたしもこれから行く!」とLINEでやりとりすることが続いてきた。母はしょっちゅうこっちに来るから、31日に母が僕の家にいるときはもちろん、二人でサーティワンアイスクリームに出かける。

僕もいつか、人の親になったら、なんかそういう“ちょっとしたお楽しみイベント”とか作れるといいなあって思う。水曜日はママと一緒に映画を見に行く日!とか。アッキー(娘のニックネーム)が玄関にラベンダー色のランドセルを放り投げて、「ママ!映画館行こ!」って僕のことを呼ぶのを想像する。僕は「こないだのテスト頑張ったから、今日はポップコーン買おっか!」と返す。娘とハグする。そして急いで支度をして、出かける。「映画たのしみだね!」………うん。素敵だ。

映画館にアイスクリーム屋さんが入っているかもしれない。そしたらポップコーンじゃなくてアイスでもいいな。映画を見たあと、アイスクリームを食べながら娘と感想を語り合う。「世界観はよかったけどストーリーはイマイチ」。アッキーは辛口である。「でも、戦うシーンかっこよかったじゃない」僕は映画をフォローしてあげる。そうだ、その頃には映画業界に行った友達がそれなりの地位についているかもしれない。パンフレットを広げて、「これママの友達」って自慢する。「ふうん」とアッキーは興味なさげにする。
「そのアイス、一口ちょうだい」「いいよ」アッキーから一口もらう。「ママのも一口あげようか?」「いらない。わたし、チョコミント好きじゃないもん」断られる。

そんな妄想をしながら、食べるアイスはおいしい。今年はサーティワンの日と真夏の雪だるま大作戦が被っている。どっちにしようかな。どちらでも、わたしが選ぶのはもちろん、ラブポーションサーティーワンと、チョコレートミント。

(この記事は7/31に公開するつもりだったものです)

「キャリア形成についてちゃんと考えろ」と上司は言った

「もっと、自分のキャリア形成についてちゃんと考えたほうがいいよ」と、上司に言われたのは年度末の面談のとき。「5年後こうなっていたいとか、10年後こうしていたいとか」。

それからずっと、一人でぐるぐる考えている。



先日、例年のごとく誕生日がやってきて、僕は26歳になった。いよいよ“アラサー”といった感じ。
ネットで目にする「婚活」とか「妊活」とか「保活」とかいう単語が、他人事ではなくなってきてしまっている、感じ。


昨年度末、アラサーの会社の女の先輩が二人、妊婦さんだったんだけれど、三月末付けで、一人は産休育休に入り、一人は会社を辞めてしまった。

妊娠したら、休むか辞めるかの二択だ。
近い将来、自分にもその選択が迫られる日が来るかもしれないと思うと、なんだかおそろしい。

休むとして、休んでる間は動けないわけで、復帰しても時短勤務とかになっちゃう確率が高いわけで。そういう事態に追い込まれるのが、いつ起きることなのか、ある程度コントロールはできるけれども完全に予測することは不可能なわけで。

僕がどんなにキャリア形成を考えたところで、日本の未来も会社の未来も自分の未来もさっぱり見えない今じゃ、考えるだけ無駄だとしか思えないんだ。





四月になって、「まあ、ひさしぶり!」と現れたその女の人の顔を僕は忘れていたけれど、産休育休明けで帰ってきたワーママだということがその後の会話からわかった。弊社、ワーママが少なくないんだけど、まあ、それなりに、ワーママが働きやすい環境なんだろうなって思う。


とりあえず、ざっくりとした目標として、「この会社でワーママになる」というのは、まあ、わるくないかもしれない。

キャリア形成については、やっぱり、考えるだけ無駄だと思うけれど、「目標をたてて目標に向かってがんばる」というのはとても大事なことかなって思えてきたから、とりあえず短期の目標だけ掲げることにした。

夏までに
・やせる(筋肉をつけて体脂肪率を減らす)
・ためてしまっている特撮の録画したやつを消化して現行作品に追い付く
・見ようと思っていて見てなかった映画をやっつける

仕事一ミリも関係ねえな…………。


そもそも、上司が「キャリア形成についてちゃんと考えたほうがいいよ」なんて言い出したのは、彼が比較的仕事熱心マンだからだ。一方で、僕は違う。僕はこうやって仕事不熱心マンとしての目標を掲げるなんて着地点を見出ださなくても「俺は仕事不熱心マンだからキャリア形成なんか死ね!」で済ましてもよかったのかもしれない。
それなのに“キャリア形成”というワードが妙に心に引っ掛かるのは、やっぱり「会社で活躍してワーママの星になりたい」みたいな思いがどっかにあるからなんだと思う。入社したばかりのキラキラ新卒だったとき、確かにそう思っていた、ような気がするそれが心のどこかに残っているんだ。


「ワーママの星になりたい」「セクマイの星になりたい」「壇蜜になりたい」「中川翔子になりたい」。それでいい。そのくらいざっくりとした目標でいい。自分が果たしていつまで働き続けるのかはわからないけど、働く気があるならあと30年以上働くことができる。仕事は長期戦だ。だから、ざっくりでいい。

「キャリア形成について“ちゃんと”考える」なんて無理、だけど自分なりに自分の将来を“ちゃんと”考えて生きていきたい。とりあえず、夏までの目標をたてて、夏になったら秋までの目標をたてればいい。そう思う。

人間、一歩ずつしか歩けないのだから。

今日も会社に遅刻した

今日も会社に遅刻した。上司におこられた。


ちっちゃいころ、つまり20年くらい前には、自分のパワーは無限大にあると思ってた。世界最強になって、世界全部だって手にできると思ってた。
そんなわけなかったけど、でも、10年くらい前までは、半分本気で信じてた。自分はお金も稼げて家族も養えて、ちゃんとした大人になって世の中にもすこし貢献できるって信じてた。


それが、このざまである。
遅刻してボーナス減額されるサラリーマン、それが僕だ。ぼくの現在の現実だ。家に帰ればそこらじゅう脱いだ服で散らかして、ろくに洗濯も洗い物もせず、ひどい日にはメイクも落とさずコンタクトもはずし忘れたまま寝てしまう。メンタルのお薬だって低用量ピルだってしょっちゅう飲み忘れるから、体も心も調子のアップダウンが激しくて自分のことすらちゃんとできない。家族を養うどころか一人暮らしだってあんまりうまくいってない、それが僕だ。


僕だ。




棚橋祐季、25歳。独身、処女、サラリーマン。


クリスマスケーキの喩えは旧時代のものとなっても、25歳にもなるとまわりで結婚するやつとか子供産むやつとかが、でてくる。正直、すげえなあと思う。結婚したり子供産んだりしたら、もう完全に大人じゃん。責任重いじゃん。寝坊して遅刻しましたとか言ってられないじゃん。人の面倒を見る側の人間になっちゃうじゃん。やばいじゃん。やばい。まじでやばい。


やばい。





まだ大人になりたくない!って、思う。深刻に思う。もう25歳だしサラリーマンだから、社会的にはとっくに大人なんだけど。結婚していようがいまいが遅刻なんて許されない身分なんだけど。それでも、まだ子供でいたい、子供でいられるところにしがみついていたい、そういう思いがある。

でも、いつかちゃんとした大人になって、子供を育てたりしたいなっていう気持ちもある。




問題は、僕が思っている僕の年齢(高校生くらい)が現実とかけ離れていて、僕が思っているよりも早く子作りのリミット(35歳くらい)が来てしまうということだ。
あと10年のうちにちゃんとした大人になれるのか、という問題。僕にはとっても自信がない。


そういう話を、母にしてみたら、「君には君のペースがあるんだから、気にしなくていいのでは?」って言われた。
「焦らなくても、人生ってうまくできてるものだよ」

そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。



「目の前のタスクをひとつずつ片付けていかなきゃ」

そうだ、僕はまだ、スタートラインにすら立てていないんだ。まずメンヘラを治して、それから、それからいろいろが始まるんだ。たぶん。


たぶんそうなんだ。





先のことって、わからない。だから、心配してもしょうがない。
明日にでも突然セックスが降ってきて妊娠しちゃうのかもしれないし、このままなんとなく10年後までヴァギナへの他者の侵入を許さないまま生きていくのかもしれない。

わからない。
だから、とりあえず、今のことをがんばるしかない。


僕はオタクだから、オタク向けコンテンツとか子供向けコンテンツとかの業界に行った友達がそれなりにいるんだけど、彼らは「今の仕事はキツいけど、これを続けていくと○○になれるんだ」「○○の技術を身に付けて、○○をしたいんだ」みたいなことを時々語って聞かせてくれる。そういうの、羨ましいなあと思う。先が見えて、夢を見られるなんて、なんと羨ましいことか。
僕は仕事で自己実現とかあんまり考えてなくて、というか、あんまり考えられなかった。女として生きているから。僕はレズビアンの人たちが考えるみたいに女一人で食っていける職を求め、子を持ちたい女性たちが考えるみたいに妊娠出産育児とかで一時的に離れても続けやすい職を求めた結果、比較的専門性の高い仕事に就いている。人生の、先が見えないからこその選択である。

僕が社会的に女じゃなかったら僕ももっと夢を追えたのかもしれないけど、僕は夢を作るより現実と戦うほうが性に合ってるし、そっちのほうがかっこいいと思ったってのもある。
僕はかっこよくなりたいし、自分の子供にかっこいいって思ってもらえる親になりたいから。


僕の自己実現の場は、まだ存在しない僕の家庭の中にあるんだ。



だから、やっぱり遅刻なんかしてる場合じゃないし、大人にならなきゃいけないんだ。

とりあえず、明日だ。明日は、絶対に遅刻しない。そこから僕の未来が始まると信じて。がんばりたい。










僕の書く文章は“がんばりたい”みたいなフレーズで終わることが多いんだけど、これはメンタルのお薬を飲み忘れることが多いために“がんばりたいけどがんばれない”状態に陥ることがありがちだからだと推測される。
だから、がんばるのは明日からじゃない。今日、寝る前の薬を飲み忘れない。そこからだ。

改めて言おう、一歩ずつでも、“がんばりたい”。

リリー・エルベと僕

先日、『リリーのすべて』を見た。世界ではじめてSRS(性別再割り当て手術、いわゆる“性転換”)を受けたMtF、リリー・エルベの伝記的小説を原作とする映画である。
とても美しくてかなしい物語だった。

リリーは美しかった。男性の俳優さんが演じているのだけど、女装を重ねるごとにどんどん美しくなっていくその姿に僕は正直興奮した。

リリーの俳優さんが『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』でニュート・スキャマンダーを演じる方だと知って、もともと『ファンタビ』は見るつもりだったけれど、ますますたのしみになった。

良い映画だった。


少し気になったのは、リリーとその妻が「自分は女だと思います」「私もそう思います」と断言するシーン。そして、SRSを受けることになったリリーが「間違っている身体をお医者が直してくださる」って言うシーン。
これら──つまり、“心の性別と身体の性別が食い違っている”とか“間違っている身体を本当の姿に戻す”とかいうのは、かなり最近になって出てきた考え方なんじゃないかなと思うのだけれど、僕の知識不足だろうか。あるいは、現代人に分かりやすい表現にしたということだろうか。それとも、そういう考え方はトランスの人たちには昔からある考え方で、最近になって社会に浸透してきたということなのだろうか。

わからないけれど、どれが正解だとしても、体は男なのに「私は女だ」なんて断言できるのにはびっくりさせられた。まあ、そこへたどりつくまでには紆余曲折あるわけだけど。


僕は、中学生くらいまで「自分は女だ」と思って生きてきた。しかしそれは、「自分の肉体は女だ」「自分の戸籍上の性別は女だ」という意味であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。「身体には性別というものがあるけど、中身はみんな同じ人間であるはず。だから、性別によって割り当てられるものが違うのは、(身体の性別が関係しない場では)おかしい」というのが僕の考えだった。

僕が考えを改めさせられたのは高校生くらいの時に、新聞にトランスジェンダーについて書いてあるのを見つけたときだ。そこではじめて“心の性”という概念に出会った。人間の中身に性の別がある、少なくともそう思う人がいると知ったのは僕にとってすごくショッキングな出来事だった。僕はその記事を読み終わると、すぐに母に「自分の身体と関係なしに、自分のことを女だと思う?」と聞いてみた。返ってきた言葉は「そう思うよ。君はそう思わないの?」。僕はびっくりした。僕は、そう思わないから。

僕はそれまでに女の子を好きになったことも男の子と付き合ったこともあった。だから、自分はレズビアンバイセクシャル女性かのどちらかだと思っていた。ところが、「自分は女だ」という基礎の部分が揺らいでしまった。僕のセクシャリティを探す旅が始まった。


僕は、大学に入った。入った頃は、とりあえず“レズビアン”を自称していた。でもそのあと、男の子を好きになったりもしたし、“レズビアン”って言葉に含まれる「自認は女」って感じが嫌だとも思ったから、途中で“バイセクシャル”に変えた。

大学に入る少し前、受験が終わった頃にtwitterのアカウントを作った。僕はさっそく情報収集を始めた。twitterにはいろんなセクシャリティの人がいた。“Xジェンダー”って言葉も、“トラニーチェイサー”って言葉も、“ジェンダーフルイド”も“オートガイネフィリア”も、全部twitterから教わった。

ジェンダーフルイド”と“オートガイネフィリア”と“バイセクシャル”は、わりとしっくりくる言葉だったので、今でも自称として使っている。まだ、自分が何者なのか、自分は何になりたいのかはぼんやりとしていて、探している過程にあるのだけど。



リリーのすべて』を見終わった僕は、本当のリリーはどんな生涯を送ったのか気になって、とりあえずWikipediaを見た。Wikipediaによると、彼女は“母になる”ことを望んで、卵巣や子宮の移植手術まで受けたらしい。結局、母になることはできず、拒絶反応がひどくて亡くなってしまったとのこと。

これは私だ、と僕は思った。リリーの物語は私の物語だ。

僕は“父親になりたい”と思っている。父親になったらああしよう、こうしよう、などと考えてみることもよくある。良い父親の姿を見ると、あのような父になりたいと思ったりもする──そして、そういうことを思ったり考えたりする度に、毎回、1秒後には現実に引き戻され、気付くのだ──僕は男体じゃないから父親にはなれない!

世界には、父親の役割を得たFtMの方が複数例
いらっしゃるということは知っているけれども、でもやっぱり、そうじゃなくて、“自分の遺伝子を受け継いだ子供を愛する人が産んでくれる”ことにすごく憧れをもっているんだ僕は。
でも、そういうことをやるのは、きっとすごくむずかしいんだ。

完全な男性器、つまり、勃起もすれば射精もできるようなものを女体に取り付けることができるようになったら、僕は──手の出せる価格設定と安全性の保証があるなら、喜んでやると思う。


でも、そういう時代が来るのは、きっとすごく未来なんだ。


リリーは死んでしまった。
その死は、僕に対して、「父親になろうとしても無駄なんだよ」って語りかけてくるもののように思えた。

現在では男性器を女性器(に似たもの)に造り変える技術は進歩して、twitterを見ているだけでもたくさんの人がタイに行って男性器を置いて帰ってくる。けれど、残念ながら妊娠・出産できる身体が造れるようには、まだなっていない。
女性器から男性器(に似たもの)を造るのはもっと難しくて、勃起のシステムの再現が、まだできないのだと聞く。


自分の生きたいように生きられるようにするために、たくさんの人が戦って、たくさんの人が死んでいった。その後の時代を、僕たちは生きている。
生きづらさは全然残ってるし、女体に生まれたら父親になれない時代だけど、昔よりは少しマシな世界になってるって信じたい。

そして、僕も戦って死ぬつもりだから、後の世界はもう少しマシな世界になるんだって、信じたい。

友達が、結婚する

「お知らせがあります!」
気の置けない仲間達の飲み会にて、隣の席の友人が急に真面目な顔をして宣言した。
「来年、入籍します!」


みんなびっくりして、それから祝い事のお知らせだったことに気づいて、手を叩いたりおめでとうと言ってみたりするなかで、僕は自分の正義──ジャスティスのために発言せねばならぬと感じて、言った。
「今の婚姻制度は、入籍じゃないよ。籍に入るんじゃなく、新しい戸籍を作るんだよ」
彼女は答えた。
「知ってるよ♪二人の戸籍が作られるんだよねっ」
それを聞いて、安心した僕の口から、自然に言葉が出てきた。
「結婚、おめでとう」


友達が、結婚する。

思ってもみないことだった。僕の友達は結婚しそうにないやつばっかりで、するとしても、そういう話題が出るのはアラサーとかアラフォーとかになってからなんだとばかり思っていた。正直、僕の友達に関しては結婚なんかするよりアカデミー賞でも取るほうが現実味がある。


恋人が仕事の都合で引っ越すのについていくとかなんとか、そういう話だった。そんなのって、21世紀になってもあるんだなあって、思った。隣に座っている彼女が、妙に遠くのものに感じられた。とりあえず、「引っ越す前に女子会しようね!!!!」と声をかけた。


元々、結婚願望の強い子だった。だから僕は、そのうち「私は結婚したいのにカレにはその気が全然なくて……」みたいな話を聞かされるようになったりするんだろうなあって、なんとなく想像してた。それなのに、それなのに。彼女の婚約──エンゲイジは光よりも早かったのだ。

“結婚”。
結婚するってどんな感じだろう。
「結婚したら一人前」的な価値観は、いまだに滅びていない。それについては滅びるべきだと思うけれども、ある程度しっかりした人じゃないと“結婚”なんてできないんじゃないかとも思う。だって、他人と一緒に住んで、お財布もひとつにして、生きていくなんて絶対難しいこと多いよ。難しいことしかないよ。相手の親族との付き合いなんかも出てきたりするし、新しく子供が産まれてきたりもするんだよ。やばさしかないよ。

大人になったら、もっとしっかりした人間に自然になるんだと思ってたのが間違いだったのと同じように、結婚する人だって案外普通の人であるのかもしれない。“結婚”は僕が考えるほど難しくなくて、普通の人でもなんとかなるようなものなのかもしれない。けれども、僕には、そこに飛び込む勇気はないなって、思う。すくなくとも、今は。


なんとなく気になって、聞いてみた。
「ブーケトスはするの?」
「晴れたらするよー」
そうか、じゃあ、晴れるといいな。
幼い頃、叔母の結婚式に行ったとき。ブーケトスの意味もわからずに参加して、ブーケが取れなかったので泣いたあの夏のことを思い出す。


結婚したいかと問われれば、わからないとしか言いようがない。結婚したいような人と出会えたら素敵だなとは思うし、そうしたらその人と結婚したいと思うのかもしれないけれど、そうでないなら別に、僕の人生に“結婚”は要らない。

でも、誰か、人生を共に歩んでくれる人がほしいとは思う。子供作ったり育てたりしたいし、今の私には頼れる人が親しかいないし、親は高い確率で僕より先に死ぬだろうし。


だれか、だれかに、僕の人生の重要な役を担ってほしい。そう思う。
それが、“結婚願望”だというのなら、そうなのかもしれない。

ブーケ、取りたいな。取れたら、いい人とご縁ができる気がする。


友人の結婚式には、大学の卒業式に着たオーダーメイドのチャイナドレスで参加するつもりだ。
だから、僕が今やるべきことは、やはりダイエットなのである。チャイナドレス作ったときよりすこし太ってしまっているからね。

花嫁の、結婚することを祝い、その後の成功と幸福を祈るためにも。とにかくダイエット。がんばりたい。

自由に生きるということ、あるいは、魔法つかいプリキュアは何のために戦うのか

“自由に生きる”。


このあいだ、『アリスインワンダーランド 時間の旅』を見てから、ずっと“自由に生きる”ってどういうことだろうって考え続けている。

以下、いろいろな作品のネタバレを含みます。



アリスが、チャイナ服でパーティーに行くシーンは、すごく“自由に生きてる”って感じがした。他のお客さんたちはみんなふつうにドレスで着飾っているのに、一人だけ中国で買ってきた中国の正装でパーティーに乗り込む、招かざれる客・アリス。めっちゃかっこいい。

“中国の正装”というのは、前作で窮屈なドレスを嫌がっていたアリスの出した結論として納得のいくものだと僕には思えたし、船に乗って長い旅をして、成長したアリスを象徴するものでもあった。すごくカラフルでキュートで、ワンダーランドに行ってからもアリスの存在感は抜群だった。前作のアリスは巻き込まれ型の主人公だったが、今回は違う。大切な友人のために自ら時間の旅に赴くのである。


“自由に生きる”って、きっと“自分自身や自分の大切なもののために一生懸命がんばる”ってことだ。険しい道程かもしれないけど、がんばらなきゃ自由になれないんだ。


シン・ゴジラ』で「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」というメッセージを受け取った者たちは、何をしたか。総力をあげてゴジラを凍結し活動を停止させたのである。不眠不休で働く政治家や官僚たちは、めっちゃかっこよかった。彼らは国民のために働くのが仕事であるとはいえ、あそこまでの総力戦が可能になったのは、やはりゴジラを倒したい気持ちがひとつになったからだと思う。気持ちと、尊厳と、プライドを守るための戦い、“好きにした”結果だと思う。ゴジラを倒さなければ、自由に生きられないんだ。



自由に生きること、好きにすること、これはトレンドなのかもしれない。と、最近思う。いろんな人、いろんな個性、いろんな生き方が社会的に認められてきて、その流れのひとつなのかな。



いろんな個性といえば『魔法つかいプリキュア!』である。「その違いが素敵だって今なら言える」。
ここでみなさんに思い出して欲しいのが、『ふたりはプリキュア』のED『ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!』の歌詞である。

「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃない?!の?」

魔法つかいプリキュア!』の戦い方は、この歌詞への11年目のアンサーなんじゃないか、と僕は勝手に思っている。


「今年のプリキュアは何のために戦っているのかわからない」と僕の父は言った。Twitterなんか見てても、(百合クラスタ以外の人に)そういう感想が多いように思う。
確かに、『魔法つかいプリキュア!』は今までのプリキュアと少し違っている。変身アイテムにもなる妖精さんのポジションは“元からこの世界にあった”クマのぬいぐるみだし、プリキュアにお世話される妖精さんは主人公たちと同じくらいにまで成長してプリキュアになってしまう(この展開はおジャ魔女どれみ先輩がやってたか)。
異世界の妖精さんが、ゴーオンジャーのボンパーやアバレンジャーのアスカさんみたいに「異世界がピンチだしこの世界にも魔の手がのびてきているから2つの世界のために戦って欲しい。あなたが伝説の戦士プリキュアの適合者です」って言いに来るのがいつものプリキュアだけど(プリキュアシリーズは今までそんなに真面目に見てなかったから間違いがあったら教えて欲しい)、まほプリは2人が出会って手を繋いだら奇跡の力で変身しちゃうし、そもそもまほプリは“伝説の戦士”ではなく“伝説の魔法つかい”だ。戦うために選ばれたソルジャーではないのである。


では、なぜ戦うのか。

一応の名目としては「リンクルストーンエメラルドが敵の手に渡らないようにすること」というのがあるし、リコちゃんがナシマホウ界に来る理由も「エメラルドを探すため」だったが、彼女たちが本当に守りたいのは友情や愛情である。
自分の大切なものを、守るために戦うのである。


象徴的なのが第1話の「キュアップラパパ!怪物よ、あっちへ行きなさい!」である。自分とか家族とか友達とかがいるところで暴れられたら困るけど、そうじゃないなら別にいいのである。

プリキュアは自分の大切なものが被害にあうと怒る。そして、プリキュアは悪いものを浄化するパワーを持っているから、それに対処するべく変身する。シンプルである。地球のためとかみんなのためとかではなくて、自分の大切なもののために戦うのである。

魔法つかいプリキュア!』は、どちらかといえば『美少女仮面ポワトリン』みたいなご町内モノの魔法少女(東映不思議コメディシリーズはほとんど見れてないので違ってたら教えてください)なのではないかと僕は思う。ついでに「ナシマホウ界で魔法つかいだとバレたらカエルにされてしまう」なんて設定をつけておけば、みんな「戦う意義がわからない」なんて言わずに「なんだ、ご町内モノか」って納得してくれたんじゃないかな。

あるいは、妹を守るために戦うついでに世界も救ってしまった『仮面ライダーカブト』にも似ているかもしれない。


みらいとリコは「一生一緒だよ!」なんて言い合う仲だし、はーちゃんは「私たちのはーちゃんに手を出させない!」って完全に娘扱いだし、モフルンはみらいがちいさいときからずっと一緒にいるし、もはや明らかに百合カップルを超えた百合ファミリーなので百合クラスタは大満足である。百合クラスタの視点で見れば、プリキュアが何のために戦っているのかは明らかである。ファミリーのためだ。

クマのぬいぐるみでも市民権を得て子供が得られる時代だし、日本でも同性パートナーシップが認められるようになってきている動きがあるし、案外、百合クラスタの見方が正しいのかもしれないなってちょっと思ったりもする。


僕は中学生の時に「僕は女の子が好きかもしれない!」って気付いて、すこしだけ悩んだりもしたけど、そんな僕の心を救ってくれたのが『ふたりはプリキュア』と『特捜戦隊デカレンジャー』の百合同人だった(藤P先輩は心のなかで抹殺した)。中にはシリアスなものもあって、なぎさとほのかが学校で「わたしたち付き合ってます!」ってカミングアウトするシーンは強烈に記憶に残っている。強いレズビアンである同人誌のなかのプリキュアは、思春期の僕のヒーローだった。強いレズビアンになりたいと思った。その後、自認は二転三転して「バイセクシャルの不定性」におちつくのだが、それはまた別の話。


自由に生きるって、難しい。日本国憲法にも、自由に生きるには不断の努力が必要って書いてある。努力しなければ、自由になんて生きられない。



できれば、仲間が欲しいなあって、最近思う。一緒に努力してくれる仲間。ここまでいろんな映像作品の名を挙げたが、どの主人公にもみんな仲間がいた。
仲間を得るにも、努力が必要なんだろうなあ。がんばらなきゃなあ。

僕は、運がいい

「ねぇ、棚橋さん?」隣の席から突然、質問が降ってきた。「運も実力のうち、っていうけどさ。どうしたら運を高められると思う?」
「信じることです」僕は即答した。「自分は運がいいんだって、心の底から思い込むんです。そうすれば運が後からついてきますよ」
「信じてるの、棚橋さんは?」
「はい」


僕は、まあ、オタクだから、平均的な人間よりは知識が多い方だと自負しているんだけど、最近では職場の先輩とか上司とかにも“わからないことを聞いたらなんでも教えてくれる人”みたいに思われてるらしくて、時々いろんなところから仕事とはあんまり関係なさそうな質問が飛んでくる。そういうポジションに僕が今あること、父が以前「(職場の人たちは)なんでも私に聞けばわかると思ってるんだ」ってこぼしてたのを思い出すと可笑しい。望むとも望まなくとも、僕は父と同じようなものになっていくんだ、結局。うれしいような悔しいような、そんな気がする。


いろいろな質問を受けたけれど、そのなかでも“どうしたら運を高められるか”というのは印象的な質問だった。もっとも抽象的で、もっとも答えにくく、しかし僕の一番の得意分野の質問だったから。なにしろ僕の専門――あるいは、人生のテーマと言ってもいい――は、哲学と幸福追求だからね。


僕は、運がいい。そう思う。

あるいは、“自分は運がいいと思い込めること”こそが“運のよさ”の本質なのだ、とも思う。



四半世紀、それなりに生きてきて、まあ、いいこともわるいこともあったけれど、今の自分が好きだし、今の自分があるためにはいいこともわるいことも必要だったなあ、って思えるから、そう考えてみると僕の場合は“運がいい”も“幸せ”も“ごはんがおいしい”も自己愛の上になりたってるのかもしれない。

僕は自分のことを特別な存在だと思っている。中二病だからである。中学生のときとか高校生のときとかに、“自分のことを特別な存在だと思うこと”をやめようとしてみたこともある。つまり、逆に“自分は至って普通の人間”と思い込もうとしたのだが、これは逆効果であった。自分の“平均的な人間とは違う”ところを際立たせてしまって、良いか悪いかは別として“自分は特別”なことを再確認させるに終わったのだ。なんかこう、考え方とか感じ方とかが違うのだ。っていうか、平均的な人間は、あまり物を考えないのだ。


僕は、ちっちゃい頃から考え事をして一人で過ごすのが好きだった。

僕の高3の夏は“死”について考えているだけで終わってしまったし、僕の浪人生の夏は“幸せに生きること”について考えているだけで終わってしまった。そんなだから浪人したところで第一志望の学校には手も足も届かなかったんだけど、僕はそれを運がよかったと思っている。というのは、第一志望だった学校に在籍している、あるいは在籍していた僕の知人友人たちは、みんな頭いいのに一人残らず留年キメてたし、僕なんか無理して入っても卒業できなかっただろうと思うからである。それに、別の学校に入って、結果的にはいろいろよい思いもできたしね。

浪人生のときは幸せだった。人生で一番、精神的に自由なときだったと思う。そのなかで自分のこととか世間のこととか社会のこととかセクシャリティのこととかいろいろ考えられたのは本当によかった。新卒で就職してすぐに抑鬱で休職したのも、なんか自由に先のこととか考え直せてよかったと思う。鬱はつらいけれども。

鬱はつらいけれども、人間の幸せなんてものは脳の健康状態によるものでしかないんだってわかったから、若いうちに経験できてよかったと思う。希死念慮みたいなものは、まったくではないけれど、ほとんどなかった。これは、“自分のこと大好き”っていう性癖によるものだと思うから、まあ、ラッキーだったよね。おかげで死なないで生きてる。


で、運の話だけど。
とりあえず、自分のこと好きじゃない人は、鏡に向かって「自分最高!!!!!イエーイ!!!!!」ってやるところから始めたらいいと思う。そうすれば運が後からついてくるよ、きっと。
そのあたり、白雪姫の継母なんかはダメだよね。鏡に向かって「一番美しいのは誰?」なんて質問しちゃうのがダメ。もっと肯定していこう、自分を。鏡がなんと言おうと自分が一番うつくしい!!!!!イエーイ!!!!!!!!