生きてると疲れる

疲れたら休む

自由に生きるということ、あるいは、魔法つかいプリキュアは何のために戦うのか

“自由に生きる”。


このあいだ、『アリスインワンダーランド 時間の旅』を見てから、ずっと“自由に生きる”ってどういうことだろうって考え続けている。

以下、いろいろな作品のネタバレを含みます。



アリスが、チャイナ服でパーティーに行くシーンは、すごく“自由に生きてる”って感じがした。他のお客さんたちはみんなふつうにドレスで着飾っているのに、一人だけ中国で買ってきた中国の正装でパーティーに乗り込む、招かざれる客・アリス。めっちゃかっこいい。

“中国の正装”というのは、前作で窮屈なドレスを嫌がっていたアリスの出した結論として納得のいくものだと僕には思えたし、船に乗って長い旅をして、成長したアリスを象徴するものでもあった。すごくカラフルでキュートで、ワンダーランドに行ってからもアリスの存在感は抜群だった。前作のアリスは巻き込まれ型の主人公だったが、今回は違う。大切な友人のために自ら時間の旅に赴くのである。


“自由に生きる”って、きっと“自分自身や自分の大切なもののために一生懸命がんばる”ってことだ。険しい道程かもしれないけど、がんばらなきゃ自由になれないんだ。


シン・ゴジラ』で「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」というメッセージを受け取った者たちは、何をしたか。総力をあげてゴジラを凍結し活動を停止させたのである。不眠不休で働く政治家や官僚たちは、めっちゃかっこよかった。彼らは国民のために働くのが仕事であるとはいえ、あそこまでの総力戦が可能になったのは、やはりゴジラを倒したい気持ちがひとつになったからだと思う。気持ちと、尊厳と、プライドを守るための戦い、“好きにした”結果だと思う。ゴジラを倒さなければ、自由に生きられないんだ。



自由に生きること、好きにすること、これはトレンドなのかもしれない。と、最近思う。いろんな人、いろんな個性、いろんな生き方が社会的に認められてきて、その流れのひとつなのかな。



いろんな個性といえば『魔法つかいプリキュア!』である。「その違いが素敵だって今なら言える」。
ここでみなさんに思い出して欲しいのが、『ふたりはプリキュア』のED『ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!』の歌詞である。

「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃない?!の?」

魔法つかいプリキュア!』の戦い方は、この歌詞への11年目のアンサーなんじゃないか、と僕は勝手に思っている。


「今年のプリキュアは何のために戦っているのかわからない」と僕の父は言った。Twitterなんか見てても、(百合クラスタ以外の人に)そういう感想が多いように思う。
確かに、『魔法つかいプリキュア!』は今までのプリキュアと少し違っている。変身アイテムにもなる妖精さんのポジションは“元からこの世界にあった”クマのぬいぐるみだし、プリキュアにお世話される妖精さんは主人公たちと同じくらいにまで成長してプリキュアになってしまう(この展開はおジャ魔女どれみ先輩がやってたか)。
異世界の妖精さんが、ゴーオンジャーのボンパーやアバレンジャーのアスカさんみたいに「異世界がピンチだしこの世界にも魔の手がのびてきているから2つの世界のために戦って欲しい。あなたが伝説の戦士プリキュアの適合者です」って言いに来るのがいつものプリキュアだけど(プリキュアシリーズは今までそんなに真面目に見てなかったから間違いがあったら教えて欲しい)、まほプリは2人が出会って手を繋いだら奇跡の力で変身しちゃうし、そもそもまほプリは“伝説の戦士”ではなく“伝説の魔法つかい”だ。戦うために選ばれたソルジャーではないのである。


では、なぜ戦うのか。

一応の名目としては「リンクルストーンエメラルドが敵の手に渡らないようにすること」というのがあるし、リコちゃんがナシマホウ界に来る理由も「エメラルドを探すため」だったが、彼女たちが本当に守りたいのは友情や愛情である。
自分の大切なものを、守るために戦うのである。


象徴的なのが第1話の「キュアップラパパ!怪物よ、あっちへ行きなさい!」である。自分とか家族とか友達とかがいるところで暴れられたら困るけど、そうじゃないなら別にいいのである。

プリキュアは自分の大切なものが被害にあうと怒る。そして、プリキュアは悪いものを浄化するパワーを持っているから、それに対処するべく変身する。シンプルである。地球のためとかみんなのためとかではなくて、自分の大切なもののために戦うのである。

魔法つかいプリキュア!』は、どちらかといえば『美少女仮面ポワトリン』みたいなご町内モノの魔法少女(東映不思議コメディシリーズはほとんど見れてないので違ってたら教えてください)なのではないかと僕は思う。ついでに「ナシマホウ界で魔法つかいだとバレたらカエルにされてしまう」なんて設定をつけておけば、みんな「戦う意義がわからない」なんて言わずに「なんだ、ご町内モノか」って納得してくれたんじゃないかな。

あるいは、妹を守るために戦うついでに世界も救ってしまった『仮面ライダーカブト』にも似ているかもしれない。


みらいとリコは「一生一緒だよ!」なんて言い合う仲だし、はーちゃんは「私たちのはーちゃんに手を出させない!」って完全に娘扱いだし、モフルンはみらいがちいさいときからずっと一緒にいるし、もはや明らかに百合カップルを超えた百合ファミリーなので百合クラスタは大満足である。百合クラスタの視点で見れば、プリキュアが何のために戦っているのかは明らかである。ファミリーのためだ。

クマのぬいぐるみでも市民権を得て子供が得られる時代だし、日本でも同性パートナーシップが認められるようになってきている動きがあるし、案外、百合クラスタの見方が正しいのかもしれないなってちょっと思ったりもする。


僕は中学生の時に「僕は女の子が好きかもしれない!」って気付いて、すこしだけ悩んだりもしたけど、そんな僕の心を救ってくれたのが『ふたりはプリキュア』と『特捜戦隊デカレンジャー』の百合同人だった(藤P先輩は心のなかで抹殺した)。中にはシリアスなものもあって、なぎさとほのかが学校で「わたしたち付き合ってます!」ってカミングアウトするシーンは強烈に記憶に残っている。強いレズビアンである同人誌のなかのプリキュアは、思春期の僕のヒーローだった。強いレズビアンになりたいと思った。その後、自認は二転三転して「バイセクシャルの不定性」におちつくのだが、それはまた別の話。


自由に生きるって、難しい。日本国憲法にも、自由に生きるには不断の努力が必要って書いてある。努力しなければ、自由になんて生きられない。



できれば、仲間が欲しいなあって、最近思う。一緒に努力してくれる仲間。ここまでいろんな映像作品の名を挙げたが、どの主人公にもみんな仲間がいた。
仲間を得るにも、努力が必要なんだろうなあ。がんばらなきゃなあ。

僕は、運がいい

「ねぇ、棚橋さん?」隣の席から突然、質問が降ってきた。「運も実力のうち、っていうけどさ。どうしたら運を高められると思う?」
「信じることです」僕は即答した。「自分は運がいいんだって、心の底から思い込むんです。そうすれば運が後からついてきますよ」
「信じてるの、棚橋さんは?」
「はい」


僕は、まあ、オタクだから、平均的な人間よりは知識が多い方だと自負しているんだけど、最近では職場の先輩とか上司とかにも“わからないことを聞いたらなんでも教えてくれる人”みたいに思われてるらしくて、時々いろんなところから仕事とはあんまり関係なさそうな質問が飛んでくる。そういうポジションに僕が今あること、父が以前「(職場の人たちは)なんでも私に聞けばわかると思ってるんだ」ってこぼしてたのを思い出すと可笑しい。望むとも望まなくとも、僕は父と同じようなものになっていくんだ、結局。うれしいような悔しいような、そんな気がする。


いろいろな質問を受けたけれど、そのなかでも“どうしたら運を高められるか”というのは印象的な質問だった。もっとも抽象的で、もっとも答えにくく、しかし僕の一番の得意分野の質問だったから。なにしろ僕の専門――あるいは、人生のテーマと言ってもいい――は、哲学と幸福追求だからね。


僕は、運がいい。そう思う。

あるいは、“自分は運がいいと思い込めること”こそが“運のよさ”の本質なのだ、とも思う。



四半世紀、それなりに生きてきて、まあ、いいこともわるいこともあったけれど、今の自分が好きだし、今の自分があるためにはいいこともわるいことも必要だったなあ、って思えるから、そう考えてみると僕の場合は“運がいい”も“幸せ”も“ごはんがおいしい”も自己愛の上になりたってるのかもしれない。

僕は自分のことを特別な存在だと思っている。中二病だからである。中学生のときとか高校生のときとかに、“自分のことを特別な存在だと思うこと”をやめようとしてみたこともある。つまり、逆に“自分は至って普通の人間”と思い込もうとしたのだが、これは逆効果であった。自分の“平均的な人間とは違う”ところを際立たせてしまって、良いか悪いかは別として“自分は特別”なことを再確認させるに終わったのだ。なんかこう、考え方とか感じ方とかが違うのだ。っていうか、平均的な人間は、あまり物を考えないのだ。


僕は、ちっちゃい頃から考え事をして一人で過ごすのが好きだった。

僕の高3の夏は“死”について考えているだけで終わってしまったし、僕の浪人生の夏は“幸せに生きること”について考えているだけで終わってしまった。そんなだから浪人したところで第一志望の学校には手も足も届かなかったんだけど、僕はそれを運がよかったと思っている。というのは、第一志望だった学校に在籍している、あるいは在籍していた僕の知人友人たちは、みんな頭いいのに一人残らず留年キメてたし、僕なんか無理して入っても卒業できなかっただろうと思うからである。それに、別の学校に入って、結果的にはいろいろよい思いもできたしね。

浪人生のときは幸せだった。人生で一番、精神的に自由なときだったと思う。そのなかで自分のこととか世間のこととか社会のこととかセクシャリティのこととかいろいろ考えられたのは本当によかった。新卒で就職してすぐに抑鬱で休職したのも、なんか自由に先のこととか考え直せてよかったと思う。鬱はつらいけれども。

鬱はつらいけれども、人間の幸せなんてものは脳の健康状態によるものでしかないんだってわかったから、若いうちに経験できてよかったと思う。希死念慮みたいなものは、まったくではないけれど、ほとんどなかった。これは、“自分のこと大好き”っていう性癖によるものだと思うから、まあ、ラッキーだったよね。おかげで死なないで生きてる。


で、運の話だけど。
とりあえず、自分のこと好きじゃない人は、鏡に向かって「自分最高!!!!!イエーイ!!!!!」ってやるところから始めたらいいと思う。そうすれば運が後からついてくるよ、きっと。
そのあたり、白雪姫の継母なんかはダメだよね。鏡に向かって「一番美しいのは誰?」なんて質問しちゃうのがダメ。もっと肯定していこう、自分を。鏡がなんと言おうと自分が一番うつくしい!!!!!イエーイ!!!!!!!!

足がかゆい

足がかゆい。
昨日、蚊に食われたものと見られる。


昨日は午後からレインボーアクションさんのイベントが我が母校であって、それに行き、それが終わってから大学近くの神社でお祭りやってるところに寄ったのである。神社っていうやつはどうしてこうも蚊に食われるんだろう。



時間がたった虫刺されってどうしてこうもキスマークに似てるんだろう。

刺されてすぐに対処していれば、こんなにかゆくならずに済んだだろうに、僕はお祭りでお酒飲んで酔って帰っていい気持ちのまま寝ちゃったから、今日こんなにかゆいのである。


かゆい。

今日は仕事のある日なのでいつも通りのパンツスーツで出社したが、やはりかゆい。
足は3ヶ所刺されており、うち2ヶ所はズボンの裾をめくればムヒが塗れるからいいんだけど、ふとももを1ヶ所刺されているのがもう、だめ。脱がなきゃ塗れない。
しかたがないので僕はポケムヒをお供にトイレに行き、トイレの個室でズボンを下ろしてムヒを塗りたくる。


まだ、かゆい。でもだいぶマシになった。



ここのところ全然ブログ書いてなくて、全国のゆきたんファンのみなさんをがっかりさせていたかもしれない。それは心苦しいことだと思う。でも、なんか書きたい気持ちが高まらないと良い文章が書けないんだ。

このブログは僕が自由にやっているものであって、書きたいときにかけばいいんだし書きたくないときは書かなきゃいいんだ。自由だ。せっかく人権があるのだから自由を謳歌しないのは損だ。僕は自由だ。だから、映画を見たら感想文を書く、っていうのはやめてしまった。映画を見ても文章が書きたくなるときとならないときがあることが最新の研究でわかってきたからである。僕は前回映画の感想文を書いたあと、4本の映画を見たが、それについては特に書いても書かなくても良いものとする。自由だから。ヒックとドラゴンはほんとにいい映画だからみんなに見てほしい、ってことだけここに書いておく。

昨日は、前述の通りレインボーアクションさんのイベントに行ったり、大学近くのお祭りに行ったりして有意義な休日だったし、それらについてもっと書いてもよかったんだが、特に書く気がおこらなかったので書かない。気が変わったら書くかもしれない。でも、蚊に食われたところめっちゃかゆくてズボン脱がないとムヒ塗れないところが刺されてるのほんとつらいなって思ったら書きたくなってきたから書きました。



自由とはそういうことです。

僕はセックスをあきらめない

高校に入ったばかりの従弟(イケメン)(運動神経が良い)がいるんだが、祖母の話によると入学した途端にモテモテで、今は3人からアタックされてて困ってるらしい。
このままでは童貞/処女からの卒業において先を越されてしまいそう、かもしれない。
セックス、しちゃうのかなあ。あの、赤ん坊のころ叔母のおっぱいに吸い付いてた彼が。幼稚園児のときは親が作ってくれたマジレンジャーの呪文一覧表を手にマージフォンで遊んでた彼が。セックスしちゃうのか…。
っていうか、あいつ高校生になったのか…ユキおねえちゃんが処女だなんて1ミリも思ってないだろうな…。

なんか、処女だということだけで、世界から置いてきぼりにされているような気分になる。


先日、非童貞の方(先輩)とセックスについてお話しする機会があって、そのとき先輩が「セックスは二人で協力プレイするもの」って仰ってたのが妙に心に刺さっている。
なんか、僕は基本的に自分のことしか考えてないんだけど、それじゃダメなんだよね。セックスは。一人でできることじゃないもんね。
僕がしていたのは、相手をおかずにしたオナニーでしかなくて、それは当然セックスへ至る道ではなかった、そういうことなのかもしれない。

かもしれない。


まあ、なんだろう、相手をあまり尊重できていなかったのが僕の反省点かなって思う。童貞なのにいろいろ期待しすぎちゃってたこととかもあったと思う。

協力プレイなんだ、一人で焦ったりとかしちゃダメなんだ。協力できる人、協力できる関係があってはじめてセックスに至れるんだ。たぶん。


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前回の記事に素敵なメッセージをいただいた。詰んでなんかない気が少ししてきた。


母に「年上のおねえさんと付き合おうなんて男の子は、おねえさんと付き合っていろいろ教えてもらおうって思ってるだろうに、おねえさんが処女だなんて残念すぎる」って言われてから、そうだよなあ、僕だって年上のおねえさんと付き合うならそう思うもんなあって思ってたけど、逆に、セッする雰囲気になってきてから突然、おねえさんが「実は初めてなの…////」とかカミングアウトしてくるっていうのもそれはそれで良いシチュエーションなんじゃないかって気もしてきた。

死ぬまで処女、っていうのもかっこいいかなとか、本当にいろいろ考えたけど、僕はセックスをあきらめないことにする。

〈追記〉




っていうか処女は比較的どうでもよくて、童貞卒業したいよな!

セックスをしたことがない

ヤーズが切れそうになってきたから、昨日は婦人科に行った。内診のある日だった。

僕が行ってる婦人科は予約するときに“女医希望”と“どちらでも良い”の二つの選択肢があるんだけど、僕はいつも“どちらでも良い”を選ぶ。っていうか本当なら僕は“男医希望”なのである。女の人にまんこ見られるの恥ずかしいんだもん。
昨日は男の先生だった。よかった。

「今日もおしりの方から見させていただきますね」
「はい」

知ってる人は知ってると思うんだけど、ヤーズを服用していると時々内診を受けなければならない。内診っていうのは、まんこに機械を(先っぽだけ)突っ込んで、超音波かなんかで内性器の様子を見るのである。
これが、セックスしたことないと問診票で申告すると、まんこではなくアヌスから検査されることになる。



僕は25歳だが、セックスしたことがない。


文字通りの意味である。けして、「しばらくセックスしてないから童貞/処女同然だよー」などと言うやつらと一緒にしないでほしい。本当にセックスしたことがない。

ここでは“セックス”を“男性器を女性器に入れること”と定義させていただく。 風属性の人が言うところの“本番行為”ってやつである。異論は数多くあることだろうが、定義しないと話が進まないのでね。


これまで、高校生の時とか、大学生の時とか、男性の恋人を持ったことが合わせて3回ある。3回ともセックスしないうちに別れた。1年以上付き合ってたこともあったのに、セックスはしなかった。(たぶん)セックス直前までいったこともあったのに、セックスはしなかった。できなかった。


あとから暦を見たら、デートしたけどセックスできなかった日はみんな不成就日だったりして、笑うほかなかった。



なぜ、セックスできないのか、答えは簡単である。“相手も童貞だから。”これに始まりこれに終わる。僕の性生活のすべてがそこにある。“相手も童貞だから。”

“童貞・処女同士で初めてのセックスをする”という、童貞のロマンみたいなものがある。僕もその持ち主だ。いや、持ち主“だった”と言うべきかもしれない。僕にはわかってしまったんだ、“童貞・処女同士で初めてのセックスをする”なんて、言うのは簡単だが、実行するのはめちゃくちゃ大変だって。準備に準備を重ねて、練習に練習を重ねて、初めてできることなんじゃないかと思う。

童貞、初体験ともなると緊張したりするし、コンドームの付け方もよくわかってないし、入れるべき穴がどういうふうになっているかもよくわかってない。緊張とわからなさで、どうしようもなくなってるうちに萎えてしまう。そんなことの繰り返しで僕の人生にセックスは登場しないまま、25歳になってしまった。


恋人、というか、特定個人(病気とかもってない)としかセックスしたくないし、自分は初めてなのに相手が経験豊富とかだったりしたらなんかやだ。そういう気持ちで童貞としか付き合ってこなかった結果がこれである。



「会社に新たな新卒が入ってきたら、年下の男の子と出会いもあるかなあ」とつぶやいたら、「でも、年上の女と付き合おうなんて男の子は『おねえさんと付き合っていろいろ教えてもらおう』って思ってるだろうに、おねえさんが処女だなんて残念すぎるでしょ」って返してきたのが母である。母は、25歳の時にはすでに結婚していた。もちろんセックスだってしていたはずだ。


まあ、そうだよなあ。
残念だよなあ。

好きな男の子のタイプに“年下”が入ってる段階で詰んでしまった感じがある。



セックスしたいか、処女卒業したいかって聞かれたら、別にどうでもいい気がする。やったことないからセックスが良いものなのかどうかわからないし。

でも、わからないことは知りたいし、やったことないことはやってみたい。そういう気持ちで“セックスを経験してみたいな”とは時々思う。

それに、当然のようにセックスしたことある同年代の人たちが、セックスしたことない同年代の人なんていないかのようにカジュアルにセックスの話なんかしてくると僕はとてもつらい。同年代とかそれ以下でセックスしたことある人のことを、宇宙人みたいに感じることがある。正直、ちょっと怖い。
そういう話をすると「それはセックスすれば治るんじゃない?」って言われるけど、たしかにそうかもしれないなって思うけど、それのためにセックスしたいとも思わない。病気じゃないし。
セックスするにしたってぼくは恋人としかセックスしたくないから恋人つくらなきゃいけないし、でも別に恋人ほしいとも思ってないし、どの選択肢を選んでも詰んでる感じしかしない。

詰んでる。



もうだめだ。

ダイエットはじめました

ダイエットを始めた。


というのも、ムーミンタンブラーほしさにオルビスの置き換えダイエットするやつ(21日分)を買ったのである。

ムーミンタンブラー、今やってるキャンペーンでもらえるやつはムーミンではなく“スノークのお嬢さん”柄であり、厳密に言えば“スノークのお嬢さんタンブラー”なんだけど、母は彼女を「ノンノン」と呼ぶので不思議に思ってGoogle先生に聞いたらWikipedia先生を紹介されて、彼女の名前の事情を知ることができた。名前がないのが正式であり、“スノーク”は種族名であるらしい。日本でアニメ化したときに日本の人間が勝手に名をつけたのでトーベ・ヤンソン激おこだったとか。まあ、怒るよねそれは。


それはともかく、ダイエットである。

今回のこれは、先にも述べたが、いわゆる置き換えダイエットだ。僕はお昼にパンを食べるのをやめてオルビスのプチシェイクに変えることにした。摂取カロリーが減るし、いろんな栄養も摂れるし、お財布にもやさしいし、会社の冷蔵庫に牛乳さえ入れておけばできるので買い物の手間も減るし、味もわるくないし、いいばっかりである。
僕はパンを食べるときに、どんなに気を付けているつもりでもそこらじゅうにパンくずをこぼしてしまう特殊能力を持っているんだけど、それもこれもオルビスのおかげで解決した。よかった。

これと、腹筋の運動を組み合わせて、あとなんか、できるだけ歩いたり階段のぼったりして、そういう感じでダイエットをする。職場の行き帰りだけで結構な運動量になってると思うから、まあ、無理して運動する必要もないだろう。


職場の人たちに“いつもパンばっかり食べてる人”と認識されているので、パンじゃないお昼ごはん食べてたらなにか言われるんじゃないかとすこしどきどきしていたのだけれど、今のところ特に何も言われない。復職してから1ヶ月以上たったので、みなさんから僕への興味関心が薄れてきてるのかもしれない。

でも、まわりの人の反応なんて、そんなことはどうでもいいことだ。
僕は僕のためにダイエットするのだから。

自分の心身を守れるのって究極的には自分しかいないし、自分を今のままでいさせることも、変えることも、自分にしかできない。

僕は、僕が大学生のときより少し太ったの知ってるし、鏡を見ると、やっぱり今よりもう少しやせてたほうが僕は素敵だと思うから、だからダイエットをする。


自分のこと素敵だって思いたいから、ダイエットをする。

ひょっとしたら、これは長いダイエット人生の始まりなのかもしれない。


がんばりたい。

万年ダイエッター

母が、「貼るやつ買っちゃったよー」と言う。“貼るやつ”というのは、あの、おなかに貼ると腹筋をピクピクさせて鍛える機械である。

こないだ腹筋座椅子買ったばかりなのに。



母は、いつもダイエットしている。
僕が物心ついたときにはすでにダイエットしていたように思う。

ビール酵母ダイエットが流行ったときは毎日ビール酵母をヨーグルトにかけたものを食べていたし、バランスボールが流行ったときはすぐにバランスボールが我が家にやって来たし、ほかにもなんか、いろんなサプリメントを試したりとか、健康情報番組でナントカ体操が紹介されたらすぐに生活のなかに取り入れたりとか、マヌカハニーとか、ココナッツオイルとか、エステティシャンの手技をモデルにしたとかいう変な機械を買ってそれで毎日二の腕をブルブルさせたりとか。

そうやって、小柄で華奢な体を維持しているのだ。



母は、やせている。僕(158cm)より少し背が低くて、体重は僕(44kg前後)と同じくらい。BMIでいうと18くらい。
だから、母がダイエットしているという話を聞くと、誰もがこう言う。「必要ないんじゃない?」
でも、ダイエットって太ってる人がやせるためにするものばかりじゃない。母は、“やせた体型を維持し続ける”ためにダイエットをしているのだ。母の辞書に“リバウンド”の文字はない。常に、努力を怠らず、ダイエットし続けるのだ。そうやって、女性に何度かおとずれる“太りやすい時期”を乗り越えてきているのだ。そうして“常にやせている”実績があるから、おいしいものを我慢せず食べることができるのだ。



僕も、やせている。
先に述べたように、母とほとんど同じ体型、BMIでいうと18くらいだ。十年前からほぼ変化なく、だから十年前の服とかも全然平気で着られる。
僕は自分の体型のこと好きだし、自分の健康的にもベストだと思っている。だって、ずっとずっとこの身体だから。


僕は一回だけすごく太ってしまったことがある。浪人したときに一年間宅浪で、ほぼ家から出ず運動もしない暮らしをしてごはんもおやつも「勉強するのにエネルギーが必要!」と主張して食べまくっていたら大学に入る頃には55キロになっていたのだ。

この増量は僕にアイデンティティの危機をもたらした。なにしろ、幼い頃から、僕はやせてるものであり、やせてるのが僕だったから。「足ほっそ!」とか「スレンダーでいいわねえ」とか言われるのが日常だったから。やせてることは僕のアイデンティティの重要な一部だった。僕は混乱した。


僕はアイデンティティを取り戻すために努力をしたか?答えはノーだ。
大学生の一人暮らしほどやせるものはないから、特にダイエットらしいダイエットもしないままに半年で10キロ落ちた。そのあと更に半年で42キロまで削って「初音ミクさんと身長体重が同じ!」っていうのをしばらくはキャッチコピーにしてた。

元々少食だからか、母からの遺伝なのか、その一回以外は全然太らないで生きてきた。だから自分の身体のことを、あまり太らない性質なのだとばかり思っていた。なのに、最近また太り始めている自分がいて、僕はすごく戸惑っている。

5号のブラウスがキツくなってきている。

就職したから、仕事のストレスで食べる量が増えたからだろうか。あるいは、低用量ピルの服用を始めたからだろうか。そもそも学生時代は3食きちんと食べるということがなかったから、社会人になって3食食べるようになっただけでも太っていってしまうのかもしれない。

母のダイエットを見ていたのだから本当はわかっていたはずなんだ。スレンダーな体型は才能が1%で99%は努力なんだって。あまり太らない性質だとしても、努力は必要なんだって。


僕の身長だったら50キロは越えているのが、一般的には健康だとされるのだろう。でも、僕には僕の健康があって、それは44キロ前後だから、体脂肪率は20%切りたいしウエストは60センチ切りたいから。



僕も母のように万年ダイエッターの道を選ぶしかなさそうだ。