生きてると疲れる

疲れたら休む

リリー・エルベと僕

先日、『リリーのすべて』を見た。世界ではじめてSRS(性別再割り当て手術、いわゆる“性転換”)を受けたMtF、リリー・エルベの伝記的小説を原作とする映画である。
とても美しくてかなしい物語だった。

リリーは美しかった。男性の俳優さんが演じているのだけど、女装を重ねるごとにどんどん美しくなっていくその姿に僕は正直興奮した。

リリーの俳優さんが『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』でニュート・スキャマンダーを演じる方だと知って、もともと『ファンタビ』は見るつもりだったけれど、ますますたのしみになった。

良い映画だった。


少し気になったのは、リリーとその妻が「自分は女だと思います」「私もそう思います」と断言するシーン。そして、SRSを受けることになったリリーが「間違っている身体をお医者が直してくださる」って言うシーン。
これら──つまり、“心の性別と身体の性別が食い違っている”とか“間違っている身体を本当の姿に戻す”とかいうのは、かなり最近になって出てきた考え方なんじゃないかなと思うのだけれど、僕の知識不足だろうか。あるいは、現代人に分かりやすい表現にしたということだろうか。それとも、そういう考え方はトランスの人たちには昔からある考え方で、最近になって社会に浸透してきたということなのだろうか。

わからないけれど、どれが正解だとしても、体は男なのに「私は女だ」なんて断言できるのにはびっくりさせられた。まあ、そこへたどりつくまでには紆余曲折あるわけだけど。


僕は、中学生くらいまで「自分は女だ」と思って生きてきた。しかしそれは、「自分の肉体は女だ」「自分の戸籍上の性別は女だ」という意味であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。「身体には性別というものがあるけど、中身はみんな同じ人間であるはず。だから、性別によって割り当てられるものが違うのは、(身体の性別が関係しない場では)おかしい」というのが僕の考えだった。

僕が考えを改めさせられたのは高校生くらいの時に、新聞にトランスジェンダーについて書いてあるのを見つけたときだ。そこではじめて“心の性”という概念に出会った。人間の中身に性の別がある、少なくともそう思う人がいると知ったのは僕にとってすごくショッキングな出来事だった。僕はその記事を読み終わると、すぐに母に「自分の身体と関係なしに、自分のことを女だと思う?」と聞いてみた。返ってきた言葉は「そう思うよ。君はそう思わないの?」。僕はびっくりした。僕は、そう思わないから。

僕はそれまでに女の子を好きになったことも男の子と付き合ったこともあった。だから、自分はレズビアンバイセクシャル女性かのどちらかだと思っていた。ところが、「自分は女だ」という基礎の部分が揺らいでしまった。僕のセクシャリティを探す旅が始まった。


僕は、大学に入った。入った頃は、とりあえず“レズビアン”を自称していた。でもそのあと、男の子を好きになったりもしたし、“レズビアン”って言葉に含まれる「自認は女」って感じが嫌だとも思ったから、途中で“バイセクシャル”に変えた。

大学に入る少し前、受験が終わった頃にtwitterのアカウントを作った。僕はさっそく情報収集を始めた。twitterにはいろんなセクシャリティの人がいた。“Xジェンダー”って言葉も、“トラニーチェイサー”って言葉も、“ジェンダーフルイド”も“オートガイネフィリア”も、全部twitterから教わった。

ジェンダーフルイド”と“オートガイネフィリア”と“バイセクシャル”は、わりとしっくりくる言葉だったので、今でも自称として使っている。まだ、自分が何者なのか、自分は何になりたいのかはぼんやりとしていて、探している過程にあるのだけど。



リリーのすべて』を見終わった僕は、本当のリリーはどんな生涯を送ったのか気になって、とりあえずWikipediaを見た。Wikipediaによると、彼女は“母になる”ことを望んで、卵巣や子宮の移植手術まで受けたらしい。結局、母になることはできず、拒絶反応がひどくて亡くなってしまったとのこと。

これは私だ、と僕は思った。リリーの物語は私の物語だ。

僕は“父親になりたい”と思っている。父親になったらああしよう、こうしよう、などと考えてみることもよくある。良い父親の姿を見ると、あのような父になりたいと思ったりもする──そして、そういうことを思ったり考えたりする度に、毎回、1秒後には現実に引き戻され、気付くのだ──僕は男体じゃないから父親にはなれない!

世界には、父親の役割を得たFtMの方が複数例
いらっしゃるということは知っているけれども、でもやっぱり、そうじゃなくて、“自分の遺伝子を受け継いだ子供を愛する人が産んでくれる”ことにすごく憧れをもっているんだ僕は。
でも、そういうことをやるのは、きっとすごくむずかしいんだ。

完全な男性器、つまり、勃起もすれば射精もできるようなものを女体に取り付けることができるようになったら、僕は──手の出せる価格設定と安全性の保証があるなら、喜んでやると思う。


でも、そういう時代が来るのは、きっとすごく未来なんだ。


リリーは死んでしまった。
その死は、僕に対して、「父親になろうとしても無駄なんだよ」って語りかけてくるもののように思えた。

現在では男性器を女性器(に似たもの)に造り変える技術は進歩して、twitterを見ているだけでもたくさんの人がタイに行って男性器を置いて帰ってくる。けれど、残念ながら妊娠・出産できる身体が造れるようには、まだなっていない。
女性器から男性器(に似たもの)を造るのはもっと難しくて、勃起のシステムの再現が、まだできないのだと聞く。


自分の生きたいように生きられるようにするために、たくさんの人が戦って、たくさんの人が死んでいった。その後の時代を、僕たちは生きている。
生きづらさは全然残ってるし、女体に生まれたら父親になれない時代だけど、昔よりは少しマシな世界になってるって信じたい。

そして、僕も戦って死ぬつもりだから、後の世界はもう少しマシな世界になるんだって、信じたい。

友達が、結婚する

「お知らせがあります!」
気の置けない仲間達の飲み会にて、隣の席の友人が急に真面目な顔をして宣言した。
「来年、入籍します!」


みんなびっくりして、それから祝い事のお知らせだったことに気づいて、手を叩いたりおめでとうと言ってみたりするなかで、僕は自分の正義──ジャスティスのために発言せねばならぬと感じて、言った。
「今の婚姻制度は、入籍じゃないよ。籍に入るんじゃなく、新しい戸籍を作るんだよ」
彼女は答えた。
「知ってるよ♪二人の戸籍が作られるんだよねっ」
それを聞いて、安心した僕の口から、自然に言葉が出てきた。
「結婚、おめでとう」


友達が、結婚する。

思ってもみないことだった。僕の友達は結婚しそうにないやつばっかりで、するとしても、そういう話題が出るのはアラサーとかアラフォーとかになってからなんだとばかり思っていた。正直、僕の友達に関しては結婚なんかするよりアカデミー賞でも取るほうが現実味がある。


恋人が仕事の都合で引っ越すのについていくとかなんとか、そういう話だった。そんなのって、21世紀になってもあるんだなあって、思った。隣に座っている彼女が、妙に遠くのものに感じられた。とりあえず、「引っ越す前に女子会しようね!!!!」と声をかけた。


元々、結婚願望の強い子だった。だから僕は、そのうち「私は結婚したいのにカレにはその気が全然なくて……」みたいな話を聞かされるようになったりするんだろうなあって、なんとなく想像してた。それなのに、それなのに。彼女の婚約──エンゲイジは光よりも早かったのだ。

“結婚”。
結婚するってどんな感じだろう。
「結婚したら一人前」的な価値観は、いまだに滅びていない。それについては滅びるべきだと思うけれども、ある程度しっかりした人じゃないと“結婚”なんてできないんじゃないかとも思う。だって、他人と一緒に住んで、お財布もひとつにして、生きていくなんて絶対難しいこと多いよ。難しいことしかないよ。相手の親族との付き合いなんかも出てきたりするし、新しく子供が産まれてきたりもするんだよ。やばさしかないよ。

大人になったら、もっとしっかりした人間に自然になるんだと思ってたのが間違いだったのと同じように、結婚する人だって案外普通の人であるのかもしれない。“結婚”は僕が考えるほど難しくなくて、普通の人でもなんとかなるようなものなのかもしれない。けれども、僕には、そこに飛び込む勇気はないなって、思う。すくなくとも、今は。


なんとなく気になって、聞いてみた。
「ブーケトスはするの?」
「晴れたらするよー」
そうか、じゃあ、晴れるといいな。
幼い頃、叔母の結婚式に行ったとき。ブーケトスの意味もわからずに参加して、ブーケが取れなかったので泣いたあの夏のことを思い出す。


結婚したいかと問われれば、わからないとしか言いようがない。結婚したいような人と出会えたら素敵だなとは思うし、そうしたらその人と結婚したいと思うのかもしれないけれど、そうでないなら別に、僕の人生に“結婚”は要らない。

でも、誰か、人生を共に歩んでくれる人がほしいとは思う。子供作ったり育てたりしたいし、今の私には頼れる人が親しかいないし、親は高い確率で僕より先に死ぬだろうし。


だれか、だれかに、僕の人生の重要な役を担ってほしい。そう思う。
それが、“結婚願望”だというのなら、そうなのかもしれない。

ブーケ、取りたいな。取れたら、いい人とご縁ができる気がする。


友人の結婚式には、大学の卒業式に着たオーダーメイドのチャイナドレスで参加するつもりだ。
だから、僕が今やるべきことは、やはりダイエットなのである。チャイナドレス作ったときよりすこし太ってしまっているからね。

花嫁の、結婚することを祝い、その後の成功と幸福を祈るためにも。とにかくダイエット。がんばりたい。

自由に生きるということ、あるいは、魔法つかいプリキュアは何のために戦うのか

“自由に生きる”。


このあいだ、『アリスインワンダーランド 時間の旅』を見てから、ずっと“自由に生きる”ってどういうことだろうって考え続けている。

以下、いろいろな作品のネタバレを含みます。



アリスが、チャイナ服でパーティーに行くシーンは、すごく“自由に生きてる”って感じがした。他のお客さんたちはみんなふつうにドレスで着飾っているのに、一人だけ中国で買ってきた中国の正装でパーティーに乗り込む、招かざれる客・アリス。めっちゃかっこいい。

“中国の正装”というのは、前作で窮屈なドレスを嫌がっていたアリスの出した結論として納得のいくものだと僕には思えたし、船に乗って長い旅をして、成長したアリスを象徴するものでもあった。すごくカラフルでキュートで、ワンダーランドに行ってからもアリスの存在感は抜群だった。前作のアリスは巻き込まれ型の主人公だったが、今回は違う。大切な友人のために自ら時間の旅に赴くのである。


“自由に生きる”って、きっと“自分自身や自分の大切なもののために一生懸命がんばる”ってことだ。険しい道程かもしれないけど、がんばらなきゃ自由になれないんだ。


シン・ゴジラ』で「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」というメッセージを受け取った者たちは、何をしたか。総力をあげてゴジラを凍結し活動を停止させたのである。不眠不休で働く政治家や官僚たちは、めっちゃかっこよかった。彼らは国民のために働くのが仕事であるとはいえ、あそこまでの総力戦が可能になったのは、やはりゴジラを倒したい気持ちがひとつになったからだと思う。気持ちと、尊厳と、プライドを守るための戦い、“好きにした”結果だと思う。ゴジラを倒さなければ、自由に生きられないんだ。



自由に生きること、好きにすること、これはトレンドなのかもしれない。と、最近思う。いろんな人、いろんな個性、いろんな生き方が社会的に認められてきて、その流れのひとつなのかな。



いろんな個性といえば『魔法つかいプリキュア!』である。「その違いが素敵だって今なら言える」。
ここでみなさんに思い出して欲しいのが、『ふたりはプリキュア』のED『ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!』の歌詞である。

「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃない?!の?」

魔法つかいプリキュア!』の戦い方は、この歌詞への11年目のアンサーなんじゃないか、と僕は勝手に思っている。


「今年のプリキュアは何のために戦っているのかわからない」と僕の父は言った。Twitterなんか見てても、(百合クラスタ以外の人に)そういう感想が多いように思う。
確かに、『魔法つかいプリキュア!』は今までのプリキュアと少し違っている。変身アイテムにもなる妖精さんのポジションは“元からこの世界にあった”クマのぬいぐるみだし、プリキュアにお世話される妖精さんは主人公たちと同じくらいにまで成長してプリキュアになってしまう(この展開はおジャ魔女どれみ先輩がやってたか)。
異世界の妖精さんが、ゴーオンジャーのボンパーやアバレンジャーのアスカさんみたいに「異世界がピンチだしこの世界にも魔の手がのびてきているから2つの世界のために戦って欲しい。あなたが伝説の戦士プリキュアの適合者です」って言いに来るのがいつものプリキュアだけど(プリキュアシリーズは今までそんなに真面目に見てなかったから間違いがあったら教えて欲しい)、まほプリは2人が出会って手を繋いだら奇跡の力で変身しちゃうし、そもそもまほプリは“伝説の戦士”ではなく“伝説の魔法つかい”だ。戦うために選ばれたソルジャーではないのである。


では、なぜ戦うのか。

一応の名目としては「リンクルストーンエメラルドが敵の手に渡らないようにすること」というのがあるし、リコちゃんがナシマホウ界に来る理由も「エメラルドを探すため」だったが、彼女たちが本当に守りたいのは友情や愛情である。
自分の大切なものを、守るために戦うのである。


象徴的なのが第1話の「キュアップラパパ!怪物よ、あっちへ行きなさい!」である。自分とか家族とか友達とかがいるところで暴れられたら困るけど、そうじゃないなら別にいいのである。

プリキュアは自分の大切なものが被害にあうと怒る。そして、プリキュアは悪いものを浄化するパワーを持っているから、それに対処するべく変身する。シンプルである。地球のためとかみんなのためとかではなくて、自分の大切なもののために戦うのである。

魔法つかいプリキュア!』は、どちらかといえば『美少女仮面ポワトリン』みたいなご町内モノの魔法少女(東映不思議コメディシリーズはほとんど見れてないので違ってたら教えてください)なのではないかと僕は思う。ついでに「ナシマホウ界で魔法つかいだとバレたらカエルにされてしまう」なんて設定をつけておけば、みんな「戦う意義がわからない」なんて言わずに「なんだ、ご町内モノか」って納得してくれたんじゃないかな。

あるいは、妹を守るために戦うついでに世界も救ってしまった『仮面ライダーカブト』にも似ているかもしれない。


みらいとリコは「一生一緒だよ!」なんて言い合う仲だし、はーちゃんは「私たちのはーちゃんに手を出させない!」って完全に娘扱いだし、モフルンはみらいがちいさいときからずっと一緒にいるし、もはや明らかに百合カップルを超えた百合ファミリーなので百合クラスタは大満足である。百合クラスタの視点で見れば、プリキュアが何のために戦っているのかは明らかである。ファミリーのためだ。

クマのぬいぐるみでも市民権を得て子供が得られる時代だし、日本でも同性パートナーシップが認められるようになってきている動きがあるし、案外、百合クラスタの見方が正しいのかもしれないなってちょっと思ったりもする。


僕は中学生の時に「僕は女の子が好きかもしれない!」って気付いて、すこしだけ悩んだりもしたけど、そんな僕の心を救ってくれたのが『ふたりはプリキュア』と『特捜戦隊デカレンジャー』の百合同人だった(藤P先輩は心のなかで抹殺した)。中にはシリアスなものもあって、なぎさとほのかが学校で「わたしたち付き合ってます!」ってカミングアウトするシーンは強烈に記憶に残っている。強いレズビアンである同人誌のなかのプリキュアは、思春期の僕のヒーローだった。強いレズビアンになりたいと思った。その後、自認は二転三転して「バイセクシャルの不定性」におちつくのだが、それはまた別の話。


自由に生きるって、難しい。日本国憲法にも、自由に生きるには不断の努力が必要って書いてある。努力しなければ、自由になんて生きられない。



できれば、仲間が欲しいなあって、最近思う。一緒に努力してくれる仲間。ここまでいろんな映像作品の名を挙げたが、どの主人公にもみんな仲間がいた。
仲間を得るにも、努力が必要なんだろうなあ。がんばらなきゃなあ。

僕は、運がいい

「ねぇ、棚橋さん?」隣の席から突然、質問が降ってきた。「運も実力のうち、っていうけどさ。どうしたら運を高められると思う?」
「信じることです」僕は即答した。「自分は運がいいんだって、心の底から思い込むんです。そうすれば運が後からついてきますよ」
「信じてるの、棚橋さんは?」
「はい」


僕は、まあ、オタクだから、平均的な人間よりは知識が多い方だと自負しているんだけど、最近では職場の先輩とか上司とかにも“わからないことを聞いたらなんでも教えてくれる人”みたいに思われてるらしくて、時々いろんなところから仕事とはあんまり関係なさそうな質問が飛んでくる。そういうポジションに僕が今あること、父が以前「(職場の人たちは)なんでも私に聞けばわかると思ってるんだ」ってこぼしてたのを思い出すと可笑しい。望むとも望まなくとも、僕は父と同じようなものになっていくんだ、結局。うれしいような悔しいような、そんな気がする。


いろいろな質問を受けたけれど、そのなかでも“どうしたら運を高められるか”というのは印象的な質問だった。もっとも抽象的で、もっとも答えにくく、しかし僕の一番の得意分野の質問だったから。なにしろ僕の専門――あるいは、人生のテーマと言ってもいい――は、哲学と幸福追求だからね。


僕は、運がいい。そう思う。

あるいは、“自分は運がいいと思い込めること”こそが“運のよさ”の本質なのだ、とも思う。



四半世紀、それなりに生きてきて、まあ、いいこともわるいこともあったけれど、今の自分が好きだし、今の自分があるためにはいいこともわるいことも必要だったなあ、って思えるから、そう考えてみると僕の場合は“運がいい”も“幸せ”も“ごはんがおいしい”も自己愛の上になりたってるのかもしれない。

僕は自分のことを特別な存在だと思っている。中二病だからである。中学生のときとか高校生のときとかに、“自分のことを特別な存在だと思うこと”をやめようとしてみたこともある。つまり、逆に“自分は至って普通の人間”と思い込もうとしたのだが、これは逆効果であった。自分の“平均的な人間とは違う”ところを際立たせてしまって、良いか悪いかは別として“自分は特別”なことを再確認させるに終わったのだ。なんかこう、考え方とか感じ方とかが違うのだ。っていうか、平均的な人間は、あまり物を考えないのだ。


僕は、ちっちゃい頃から考え事をして一人で過ごすのが好きだった。

僕の高3の夏は“死”について考えているだけで終わってしまったし、僕の浪人生の夏は“幸せに生きること”について考えているだけで終わってしまった。そんなだから浪人したところで第一志望の学校には手も足も届かなかったんだけど、僕はそれを運がよかったと思っている。というのは、第一志望だった学校に在籍している、あるいは在籍していた僕の知人友人たちは、みんな頭いいのに一人残らず留年キメてたし、僕なんか無理して入っても卒業できなかっただろうと思うからである。それに、別の学校に入って、結果的にはいろいろよい思いもできたしね。

浪人生のときは幸せだった。人生で一番、精神的に自由なときだったと思う。そのなかで自分のこととか世間のこととか社会のこととかセクシャリティのこととかいろいろ考えられたのは本当によかった。新卒で就職してすぐに抑鬱で休職したのも、なんか自由に先のこととか考え直せてよかったと思う。鬱はつらいけれども。

鬱はつらいけれども、人間の幸せなんてものは脳の健康状態によるものでしかないんだってわかったから、若いうちに経験できてよかったと思う。希死念慮みたいなものは、まったくではないけれど、ほとんどなかった。これは、“自分のこと大好き”っていう性癖によるものだと思うから、まあ、ラッキーだったよね。おかげで死なないで生きてる。


で、運の話だけど。
とりあえず、自分のこと好きじゃない人は、鏡に向かって「自分最高!!!!!イエーイ!!!!!」ってやるところから始めたらいいと思う。そうすれば運が後からついてくるよ、きっと。
そのあたり、白雪姫の継母なんかはダメだよね。鏡に向かって「一番美しいのは誰?」なんて質問しちゃうのがダメ。もっと肯定していこう、自分を。鏡がなんと言おうと自分が一番うつくしい!!!!!イエーイ!!!!!!!!

足がかゆい

足がかゆい。
昨日、蚊に食われたものと見られる。


昨日は午後からレインボーアクションさんのイベントが我が母校であって、それに行き、それが終わってから大学近くの神社でお祭りやってるところに寄ったのである。神社っていうやつはどうしてこうも蚊に食われるんだろう。



時間がたった虫刺されってどうしてこうもキスマークに似てるんだろう。

刺されてすぐに対処していれば、こんなにかゆくならずに済んだだろうに、僕はお祭りでお酒飲んで酔って帰っていい気持ちのまま寝ちゃったから、今日こんなにかゆいのである。


かゆい。

今日は仕事のある日なのでいつも通りのパンツスーツで出社したが、やはりかゆい。
足は3ヶ所刺されており、うち2ヶ所はズボンの裾をめくればムヒが塗れるからいいんだけど、ふとももを1ヶ所刺されているのがもう、だめ。脱がなきゃ塗れない。
しかたがないので僕はポケムヒをお供にトイレに行き、トイレの個室でズボンを下ろしてムヒを塗りたくる。


まだ、かゆい。でもだいぶマシになった。



ここのところ全然ブログ書いてなくて、全国のゆきたんファンのみなさんをがっかりさせていたかもしれない。それは心苦しいことだと思う。でも、なんか書きたい気持ちが高まらないと良い文章が書けないんだ。

このブログは僕が自由にやっているものであって、書きたいときにかけばいいんだし書きたくないときは書かなきゃいいんだ。自由だ。せっかく人権があるのだから自由を謳歌しないのは損だ。僕は自由だ。だから、映画を見たら感想文を書く、っていうのはやめてしまった。映画を見ても文章が書きたくなるときとならないときがあることが最新の研究でわかってきたからである。僕は前回映画の感想文を書いたあと、4本の映画を見たが、それについては特に書いても書かなくても良いものとする。自由だから。ヒックとドラゴンはほんとにいい映画だからみんなに見てほしい、ってことだけここに書いておく。

昨日は、前述の通りレインボーアクションさんのイベントに行ったり、大学近くのお祭りに行ったりして有意義な休日だったし、それらについてもっと書いてもよかったんだが、特に書く気がおこらなかったので書かない。気が変わったら書くかもしれない。でも、蚊に食われたところめっちゃかゆくてズボン脱がないとムヒ塗れないところが刺されてるのほんとつらいなって思ったら書きたくなってきたから書きました。



自由とはそういうことです。

僕はセックスをあきらめない

高校に入ったばかりの従弟(イケメン)(運動神経が良い)がいるんだが、祖母の話によると入学した途端にモテモテで、今は3人からアタックされてて困ってるらしい。
このままでは童貞/処女からの卒業において先を越されてしまいそう、かもしれない。
セックス、しちゃうのかなあ。あの、赤ん坊のころ叔母のおっぱいに吸い付いてた彼が。幼稚園児のときは親が作ってくれたマジレンジャーの呪文一覧表を手にマージフォンで遊んでた彼が。セックスしちゃうのか…。
っていうか、あいつ高校生になったのか…ユキおねえちゃんが処女だなんて1ミリも思ってないだろうな…。

なんか、処女だということだけで、世界から置いてきぼりにされているような気分になる。


先日、非童貞の方(先輩)とセックスについてお話しする機会があって、そのとき先輩が「セックスは二人で協力プレイするもの」って仰ってたのが妙に心に刺さっている。
なんか、僕は基本的に自分のことしか考えてないんだけど、それじゃダメなんだよね。セックスは。一人でできることじゃないもんね。
僕がしていたのは、相手をおかずにしたオナニーでしかなくて、それは当然セックスへ至る道ではなかった、そういうことなのかもしれない。

かもしれない。


まあ、なんだろう、相手をあまり尊重できていなかったのが僕の反省点かなって思う。童貞なのにいろいろ期待しすぎちゃってたこととかもあったと思う。

協力プレイなんだ、一人で焦ったりとかしちゃダメなんだ。協力できる人、協力できる関係があってはじめてセックスに至れるんだ。たぶん。


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前回の記事に素敵なメッセージをいただいた。詰んでなんかない気が少ししてきた。


母に「年上のおねえさんと付き合おうなんて男の子は、おねえさんと付き合っていろいろ教えてもらおうって思ってるだろうに、おねえさんが処女だなんて残念すぎる」って言われてから、そうだよなあ、僕だって年上のおねえさんと付き合うならそう思うもんなあって思ってたけど、逆に、セッする雰囲気になってきてから突然、おねえさんが「実は初めてなの…////」とかカミングアウトしてくるっていうのもそれはそれで良いシチュエーションなんじゃないかって気もしてきた。

死ぬまで処女、っていうのもかっこいいかなとか、本当にいろいろ考えたけど、僕はセックスをあきらめないことにする。

〈追記〉




っていうか処女は比較的どうでもよくて、童貞卒業したいよな!

セックスをしたことがない

ヤーズが切れそうになってきたから、昨日は婦人科に行った。内診のある日だった。

僕が行ってる婦人科は予約するときに“女医希望”と“どちらでも良い”の二つの選択肢があるんだけど、僕はいつも“どちらでも良い”を選ぶ。っていうか本当なら僕は“男医希望”なのである。女の人にまんこ見られるの恥ずかしいんだもん。
昨日は男の先生だった。よかった。

「今日もおしりの方から見させていただきますね」
「はい」

知ってる人は知ってると思うんだけど、ヤーズを服用していると時々内診を受けなければならない。内診っていうのは、まんこに機械を(先っぽだけ)突っ込んで、超音波かなんかで内性器の様子を見るのである。
これが、セックスしたことないと問診票で申告すると、まんこではなくアヌスから検査されることになる。



僕は25歳だが、セックスしたことがない。


文字通りの意味である。けして、「しばらくセックスしてないから童貞/処女同然だよー」などと言うやつらと一緒にしないでほしい。本当にセックスしたことがない。

ここでは“セックス”を“男性器を女性器に入れること”と定義させていただく。 風属性の人が言うところの“本番行為”ってやつである。異論は数多くあることだろうが、定義しないと話が進まないのでね。


これまで、高校生の時とか、大学生の時とか、男性の恋人を持ったことが合わせて3回ある。3回ともセックスしないうちに別れた。1年以上付き合ってたこともあったのに、セックスはしなかった。(たぶん)セックス直前までいったこともあったのに、セックスはしなかった。できなかった。


あとから暦を見たら、デートしたけどセックスできなかった日はみんな不成就日だったりして、笑うほかなかった。



なぜ、セックスできないのか、答えは簡単である。“相手も童貞だから。”これに始まりこれに終わる。僕の性生活のすべてがそこにある。“相手も童貞だから。”

“童貞・処女同士で初めてのセックスをする”という、童貞のロマンみたいなものがある。僕もその持ち主だ。いや、持ち主“だった”と言うべきかもしれない。僕にはわかってしまったんだ、“童貞・処女同士で初めてのセックスをする”なんて、言うのは簡単だが、実行するのはめちゃくちゃ大変だって。準備に準備を重ねて、練習に練習を重ねて、初めてできることなんじゃないかと思う。

童貞、初体験ともなると緊張したりするし、コンドームの付け方もよくわかってないし、入れるべき穴がどういうふうになっているかもよくわかってない。緊張とわからなさで、どうしようもなくなってるうちに萎えてしまう。そんなことの繰り返しで僕の人生にセックスは登場しないまま、25歳になってしまった。


恋人、というか、特定個人(病気とかもってない)としかセックスしたくないし、自分は初めてなのに相手が経験豊富とかだったりしたらなんかやだ。そういう気持ちで童貞としか付き合ってこなかった結果がこれである。



「会社に新たな新卒が入ってきたら、年下の男の子と出会いもあるかなあ」とつぶやいたら、「でも、年上の女と付き合おうなんて男の子は『おねえさんと付き合っていろいろ教えてもらおう』って思ってるだろうに、おねえさんが処女だなんて残念すぎるでしょ」って返してきたのが母である。母は、25歳の時にはすでに結婚していた。もちろんセックスだってしていたはずだ。


まあ、そうだよなあ。
残念だよなあ。

好きな男の子のタイプに“年下”が入ってる段階で詰んでしまった感じがある。



セックスしたいか、処女卒業したいかって聞かれたら、別にどうでもいい気がする。やったことないからセックスが良いものなのかどうかわからないし。

でも、わからないことは知りたいし、やったことないことはやってみたい。そういう気持ちで“セックスを経験してみたいな”とは時々思う。

それに、当然のようにセックスしたことある同年代の人たちが、セックスしたことない同年代の人なんていないかのようにカジュアルにセックスの話なんかしてくると僕はとてもつらい。同年代とかそれ以下でセックスしたことある人のことを、宇宙人みたいに感じることがある。正直、ちょっと怖い。
そういう話をすると「それはセックスすれば治るんじゃない?」って言われるけど、たしかにそうかもしれないなって思うけど、それのためにセックスしたいとも思わない。病気じゃないし。
セックスするにしたってぼくは恋人としかセックスしたくないから恋人つくらなきゃいけないし、でも別に恋人ほしいとも思ってないし、どの選択肢を選んでも詰んでる感じしかしない。

詰んでる。



もうだめだ。