生きてると疲れる

疲れたら休む

たとえば、明日死んでしまっても大丈夫なように

たとえば、明日死んでしまっても大丈夫なように、ブログを始めようと思った。


“死”を意識するようになったのは、少し前に祖父を亡くしたからかもしれない。身近な人を亡くすのは初めての経験だった。

人間は死ぬ。必ず死ぬんだ。

祖父は年齢も年齢だったし、元々身体の調子がわるかったからいつ死んでもおかしくなかったけど、人生何が起こるかわからないし、僕だって明日突然死ぬかもしれない。

祖父の葬儀で親父が喪主挨拶をするのを聞きながら、僕自身は後世に何か残せるだろうかと考えていた。

虎は死して皮を残し、人は死して名を残すというけれど、僕は自分の名が残ることにそこまで意義を感じない。名は、残らなくていい。遺伝子も、そこまで残す必要性を感じない。人類皆兄弟、僕が持っている遺伝子はきっと別の誰かも持っている。僕しか持っていない特別な遺伝子が人類の運命を左右するなんてこと、可能性はゼロじゃないけど、まあ、ないだろう。

僕ができること、僕にしかできないことがあるとしたら――少々、哲学的な問いじみているが――“僕が僕であること”、その一点だと思う。

僕はオタクだしセクシャルマイノリティだから、世の中にロールモデルが少ないなあと感じているんだけど、中学生のときからインターネットに自由にアクセスできる環境には大いに救われている。10年前はレズビアンカップルたちが自分達の運営するウェブサイトやブログに、5年前はtwitterのセクマイクラスタ達がツイートとして、自らの生きざまを綴っていてくれたおかげで今、自分が自分であることに自信を持って生きていられているのだと感じる。

何か特別なことをしなくても、“僕が僕として生きている”、それだけで誰かの希望になれるということもあると思う。

本当は、いつか子を持ったときに、その子のヒーローになれたら一番いいななんて思っているのだけれど、もしも明日死んだら“いつか”には間に合わないから。
明日死んでしまっても大丈夫なように、今日、ブログを始めます。