生きてると疲れる

疲れたら休む

『ズートピア』を見た

先日、話題のディズニー最新作『ズートピア』を見に行った。字幕2D。



元々は、全然見るつもりなどなかった。CMにあまり魅力を感じていなかったからだ。けれど、twitterフェミニズム界隈の方々が絶賛しているのを見て「おっ!フェミ映画なら見ない手はないな!」と思って見ることにしたのである。

事前に情報をほとんど仕入れなかったので、僕はテレビCMで得た情報――「ウサギが警察官になるらしい」「いろんな動物が共生する街らしい」という2つの情報だけを持って参戦することとなった。

「“夢”を見せるような映画なのかな」とぼんやり思っていた。いろんな動物が共生するだなんて、鳥獣戯画か、ジャングル大帝か、あるいは動物戦隊ジュウオウジャーか…。何にしても、動物を擬人化するにあたってひどくデフォルメされてるのは間違いないだろう、そう思った。


※以下、ネタバレを含みます







ところがどっこい。
描かれていたのは重苦しいほどに“現実”そして“現代社会”だった。
デフォルメされているのは動物ではなく、我々人間のほうだった。人間が“擬獣化”されているのである。動物達の見た目や性質は動物のそれをしっかりなぞりながら、それでいて行動様式は人間のものだった。
正直、驚いた。



僕は、昨年就職したばかりだし、地方出身東京在住だから主人公のジュディにとても共感しながら見ることができた。
ジュディから見たズートピアは――きっとアメリカの都市を参考に描かれているのだとは思うけれど――僕が見た東京ととてもよく似ていた。

多様性の溢れる街。
コールドプレスジュースのスタンド。
隣の部屋の音が聞こえる狭いアパート。
職場での悪気のないセクハラ発言。
がんばって入った就職先で与えられるバイトでもできそうな仕事。
仕事をしているだけなのに飛んでくる知らない人からの罵声。
行列ができるアイス屋さん。
詐欺みたいな商売。
都会へ行く娘を心配して連絡してくる両親。

どれもこれも、僕が上京して見聞きしたのとそっくりだった。


ジュディが彼女の父からキツネ避けスプレーを与えられるシーンで、僕は、僕のビジネスバッグについている防犯ブザーを思い出した。僕が職場に配属されてすぐに上司がくれたものだ。「女性が少ない業界だし、女の子が一人でいるのは危ないから外回りのときは持って行って」と。上司が本当に心配してくれていることはわかったし、危険があるというのももっともだと思ったけれど、どこかで“若い女性である”というだけでバカにされているような感覚を拭えなかった。

若い女は甘く見られる。特に、男性が多く女性が少ない場では。

ジュディの通っていた警察学校には、彼女のサイズにあったトイレがなく、ジュディは大型動物用のトイレを無理して使わざるを得なかった。警察学校では、大型の動物しか想定されていないのである。警察署の会議室の机や椅子も大型動物しか想定されていないサイズであり、ジュディには大きすぎた。
女性が男社会で生きていくことの難しさをよく描いていると感じた。


いろいろな差別や偏見を、動物におきかえながら丁寧に、時には深刻に、時にはユーモアをもって描いているのには感心させられる。

ジュディはニックに「ニンジン」呼ばわりされるが、それは赤毛の人をバカにするときの言い方だったのではないか。国柄ジョークは種族ジョークに置き換えられ、肉食動物と草食動物の間の差別には男女差別や民族・宗教に基づく差別、貧富の差から起こる数々の問題を彷彿とさせるものがあった。出身地差別や職業差別などの昔からあり、今でも解決されたとは言えない古典的な差別ももちろん描かれていた。


ニックの回想シーンでは、大学生のときにセクシャルマイノリティのサークルの新歓に行ったときのことが思い起こされた。
あの草食動物達はゲイ男性だ、と僕は思った。
ゲイの方は普段はマイノリティだが、“セクシャルマイノリティ”や“LGBT”のくくりで人を集めたときには最大勢力と化す。そして、他のセクシャリティの方やシスヘテロ女性に対して差別的な取り扱いをすることも少なくないのである。僕はゲイばっかりの環境が気に入らなかったので、2、3回顔を出したが入部には至らなかった。

誰がマイノリティで誰がマジョリティなのかは時と場合によって変わってくる。


ジュディもそうだった。ずっと弱い立場におかれていた彼女が、肉食動物達の失踪事件を解決したことで一躍ヒーローとなったそのとき、ジュディは強者になっていた。そして肉食動物達への偏見に満ちた言葉を口にするのである。
肉食動物は「生物学的に」「本能的に」草食動物を襲うものである、と。しかし、ニックについては「友達だから特別」だと。


「生物学」。セクシャルマイノリティへの差別的発言によく含まれている言葉だ。
「本能」。男性による性犯罪などについて、擁護するときにしばしば用いられる言葉だ。
「友達」。「私には黒人の友達がいる」などと、自分が差別をするような人間ではないという弁解としてよく使われる言葉だ。しかし黒人の友達がいることは黒人差別をしないことの証明にはならない――ジュディのように。

差別は、誰もがしてしまう可能性のあるものだ。悪意がなくても差別は差別だ。そういったことがよく描かれている映画だった。


『ズートピア』の物語は事件の解決とともに終わってしまう。それまでに描かれてきたいろいろな差別の多くは解決を見ない。しかし、最後に“希望”が示される。ニックがキツネ初の警察官になるのである。ジュディが幼い頃から持っていた“あきらめの悪さ”が、他者の運命を変えたのだ。ラストに流れる主題歌も、あきらめないことの大切さを歌っている。あきらめずに挑戦し続ければ、世界をより良いものに変えていくことができるのだ。


いろんな差別が描かれていて、世の中にある差別をほぼ網羅してるんじゃないかと思うレベルだったけれど、よく考えたらセクシャリティ関係の差別はなかったように思う。今、まさにセンシティブな問題だから避けたのかな…。