生きてると疲れる

疲れたら休む

満足なソクラテスになりたい

会社っていうところは、「貴方は必要とされている」というメッセージと「貴方のかわりはいくらでもいる」というメッセージ、この二つを同時に突きつけてくる。


僕は僕で、かけがえのない自分になりたくて、わるあがきをしたりする。
誰にでもできるような仕事に、ほんのちょっぴりだけ自分のカラーを足してみたりする。それになんの意味があるかわからないけど。




今の職場や仕事にもそこそこ満足しているし、今の住居のことも好きだし、ごはんはおいしいし、おやつもおいしい。少数精鋭な友達もいるし、ファンですって言ってくれる人もいるし、かわいい家族のピカ氏もいるし、親の理解に恵まれているし、なによりも自分のことを愛している。

しあわせと言ってしまえば、しあわせなのかもしれない。



だけれど、何か、ばたばた忙しくしているうちに過ぎ去っていく日々がかなしくて、僕はわるあがきを、する。ブログ書いてるのだってわるあがきだ。何か、満ち足りないところを埋めようとしてるのだ。


なにが、満ち足りないんだろう。

無限の欲望があって、基本的に、やったことないことはやってみたいと思う。
いろんな人や物事と出会いたいし、いろんなスキル身に付けたいし、もっと強くなりたいし、いろんなことを知りたい。



人は必ず死ぬのだから、満足して死にたいなあと思う。
満足なソクラテスになりたい。それが無理なら、満足な豚でもいい。満足なのがよい。でも、愚かなのはダメだ。愚かな人は、意図せずに自分や他人を傷つけることがあるからダメ。できるだけ、きちんといろんなことを知っていて、きちんといろんなことを考えられる人になりたい。


でも、知るって残酷だ。なにかを“知る”こと以上に不可逆なものはないんじゃないかと思う。

僕は、すごくセンシティブなところがあって、それはたぶん小学生の頃にいじめにあってからのことだ。ある日突然、自分以外のクラスメイトが全員、僕に対して不快感を示してくる、そういうタイプのやつ。暴力とか嫌がらせみたいなわかりやすいやつじゃなくて、クラスの空気を操ってくる系の攻撃。一番威力の高いイジメ。まあ、僕は元々友達がとても少なかったし、ぼんやりしててマイペースだから、自分がいじめられてることに数ヶ月気付かなかったんだけど。

もしかしたら自分はいじめられてるんじゃないか、と思った僕はまず母に相談し、そうしたら担任に相談するように言われ、担任に相談したら担任がすごく有能だったのであっという間に解決した。さすがに担任も、僕が認識していた“いじめられ始めた時期”と、クラスメイトたちが自白した“いじめ始めた時期”が大きくズレているのには驚いたようだったけど。

クラスメイトのみんなは反省して、昼休みに僕を「一緒に体育館であそぼう」って誘ってきたりしたけど、僕は本が読みたかったからお断りした。その対応が不適切であったことは後から知った。その後二度と誘われることはなかったが、僕はとっくに地元の中学には行かないことが決まっていたから気楽なものだった。彼らに二度と会うことはないだろう、バイバイ、って感じ。


気楽でなかったのは母である。僕がいじめられてた(ことに気付いた)事件によって、そもそも僕は“友達の作り方”を知らないんじゃないかという疑惑が出てきて、問題視された。
「どうしてたくさん本読んでるのに友達の作り方とか付き合い方とかがわからないの?」と母は聞いた。
「ああいうのはフィクションだと思ってた」と僕は答えた。

僕は、僕で、なんとなく自分が浮いてることに気付きつつはあったが、その疑念に決定打を打たれた気分だった。12歳にして友達の作り方がわからないだなんて!空気が読めなさすぎるだなんて!

母は、僕に「とにかく挨拶しろ」「自分から話しかけるのが苦手なんだったら、話しかけられるのを待て、そしてその子と会話をできるだけ続けろ」「にこにこしろ」などといったアドバイスをしてきた。そうしたら中学生になって友達ができたりして、彼氏もできたりして、一緒にあそびに行く人なんかも出てきた。しかし、そうしていると僕は「人とあそぶより一人であそんでたほうがたのしいな……」ということに気付いてしまって、そうしてなんとなく疎遠になって、またしても友達はすごく少なくなっていった。

その後も、だいたいそんなことの繰り返しだった。
たぶん、一回いじめられ(ていることに気付い)たそのときの気持ちがまだどこかに残ってて、人付き合いってものそれ自体に恐怖を抱くようになってしまったのだと思う。できるだけ人と関わりたくなかった。


twitterを始めてセクマイクラスタのみんなに出会って、大学でオタサーに入ってオタクのみんなと出会って、それで初めて、両親以外の“自分に似てる人たち”に出会えて、遅れてきた青春をたのしむことがようやくできた。しかしそれと同時に、またしても僕は知ってしまった。いや、薄々気付いてはいたんだけどね。世界は僕たちのようなもののためにはできていないということに。

知ってしまったら後戻りはできないのだ。



「僕は、自分自身と、自分に似ている人たちのために戦う」、これは僕の人生のスローガンである。つらいときやかなしいときに自分に言い聞かせる。

僕は、本当なら、もう、誰かのために戦い始めているべきなのかもしれなかった。けど、就職して半年で休職したりなんかして、今は今を生きることでいっぱいいっぱいで、それどころじゃない。
でも僕は、基本的に前向きだから、「休職した経験を生かして、これから休職しちゃう人を応援できるな」って思う。まだまだ、僕の人生は、学ぶ段階にあるのかなって思う。学ぶべきことがたくさんあるんだ。

そう、思う。


本当は、会社にとって僕が必要か必要じゃないか、かけがえがあるかないかなんて関係ないんだ。僕は僕にとって大切な存在だし、会社だって世界だって、いつか僕が変えてやるんだ。もっとマシな世界にしてやるんだ。

そういうことのために、僕はこの先の人生を使っていきたいんだ。だから、まだまだ学ぶ必要がある。

知識欲が無限にあって、知れば知るほどさらに知りたくなるような欲望だから、満たすのは難しいんだけど、知識を得るだけじゃなくて何かに生かせたら……、そしたら満足できるかもしれないと思う。

今は、僕にとって会社で経験値を積むことは必要だ。だから、会社のほうからも必要な存在だと思われればwin-winな関係になれる。そうなりたい。

僕にとって、僕はかけがえのない僕だから。