生きてると疲れる

疲れたら休む

思ってたのと違う

近所の神社のお祭りに行って、たこ焼き食べてるときにそれはやってきた。
今まで感じたことのない、強い腹痛。吐き気。

その日は家にあった胃薬を飲んで寝たが、ほとんど眠れなかった。
その後も吐き気は続き、たまに吐き、頭痛や腰痛や怠さなんかも現れた。まったく、悪阻そのものだった。

「妊娠では?」と、母は言った。「避妊してなかったの?」
「してたけど」と、僕は答えた。「100%かと言われると自信がない」

ちょうどヤーズが切れる頃だった。だから、婦人科のお医者に相談することにした。
「妊娠したかもしれない」と言うと「検査しましょう」と言われた。すぐに尿検査された。

結果は。


どきどきしている僕に、「妊娠してないから大丈夫ですよ」と、お医者は告げた。
僕は、ほっとしたようながっかりしたような気持ちになった。

それっきり、吐き気も腹痛もしなくなった。
想像妊娠だとわかると悪阻のような症状は治まる、とWikipediaに書いてあった。まったく、想像妊娠そのものだった。

想像妊娠だったのだろうか。僕はGoogle先生に問いかける。
「想像妊娠は、妊娠を強く望んでいるか、恐れているときに起こりやすい」と、Google先生は答える。
僕は、妊娠を強く望んでいるのだろうか。あるいは、恐れているのだろうか。
誰も答えてくれない。自分で答えを出すしかない。


どちらでもないような、どちらでもあるような、そんな気がする。



逃避、したいんだろうな。と、僕は思う。
僕は現状に満足していない。何か変化を求めているんだ、そんな気がする。


先日、twitterで「若者が結婚したがるのは遊ぶ金がないから」という意見を目にした。かつては若者に金があって、まだまだ遊んでいたいから結婚したくないと言ったものだが、今は金がないから独身である状態に満足できないのだ、と。
そうかもしれない、と僕は思った。

「結婚は人生の墓場だ」という言葉がある。「独身貴族」なんて言葉もある。独身者は悠々自適、結婚するとそうはいかない……という意味なのだと思う。
そういう価値観が世の中にはあって、僕もいつのまにかそれを信じこんでいて、結婚したり子供ができたりする前の、独身の大人の生活はたのしいんだろうと思っていた。仕事があるから時間は限られるのかもしれないけど、夜とか休みの日とかはいっぱい遊べて、お金があるから好きなものを買いまくれるのだと思っていた。なんとなく。

そうではなかった。少なくとも今は、そうではない。ぼくが抑うつ気味であんまり元気がないことを差し引いても、たのしく遊べるような気力も体力も時間もお金も足りないと感じている。特に、お金が。
お金が全然ないわけではない。そこそこの企業の正社員として勤めているし、同世代の人と比べても遜色ない給与を得ていると思う。それでも、「足りない」と感じる。
欲が深いというわけではない。むしろ逆だと思う。「使えるお金がない」というより、「お金を使うのをためらってしまう」といったほうが正確かもしれない。漠然とした、“将来への不安”みたいなものが、僕に浪費をさせない。昼メシを300円未満で済ませて、できるだけ貯金しようとしてしまう。ほんとはその気になりさえすれば、1000円のランチだって食べられるのだと思うのだけれど。

“将来への不安”を抱かずにはおれない、この時代は暗すぎる。

思えば暗い時代を生きてきた。僕が生まれてから四半世紀を過ぎるけれども、物心ついた頃には日本経済は“失われた10年”と呼ばれた低迷期に突入しており、低迷は10年では終わらず、いつのまにか“失われた20年”と呼ばれるようになっていた。僕と同世代の人たちはみんな、生まれてからずっと、失われ続けているのである。


およそ20年前、不景気が20年も続くなんて誰も思っていなかった頃、きっと多くの人がそうだったように、僕も夢見る幼い子供であった。両親とも高等教育を受けていたから、自分も当然大学まで行って、就職して結婚して子供をつくって子育てしていくのだと思っていた。東京に住んで、東京で子育てしていくのがいつの頃からか夢だった。庭付きの広い家に住んで、子供は一人か二人で、自分が子供の頃に面白いと感じたものは全部子供に伝えてあげて、子供が自ら面白いと感じるものに出会い発見していくのも全力で手伝ってやって…………。
そんな、豊かな生活。夢だった。

まだ、僕の人生は途上だ。未来は始まったばかりだ。上京して大学を出て就職して、ついでに処女も卒業して、スタートラインにようやく立ったと言ってもいい。でも、スタートラインの時点で、これ思ってたのと違うなって感じてる。この先に豊かな生活が待っていると信じきれない感じがする。


先が見えない感じ。もぞもぞする。結婚したら、何かが変わるのかもしれないし、子供ができたら、何かが変わるのかもしれない。変わらないまま、もぞもぞするままなのかもしれない。

母が僕を生んだ年齢まで、あと二年と半分しかない。自然妊娠のタイムリミットと言われている32歳(そこを過ぎると一気に妊娠しにくくなるらしい)だってそのすぐ後ろに控えている。僕は子供をもって育てていくのが夢なのに、焦燥感がないと言えば嘘になる。


それで、かもしれない。やはり僕は、妊娠を強く望んでいるのかもしれない。

かも、しれない。





「妊娠したかもしれない」ってなってたとき、ふと思ったのは「デキ婚はやだなあ」ということである。
べつに、道徳的なことじゃない。順番なんてどうでもいいと思ってる。どんな順番で何をしたって、恋愛やら結婚やらは当事者たちの問題なのだから、本人たちが幸せであればおめでたいし、本人たちが納得していれば正しいと思う。

では、なぜ「デキ婚はイヤ」なのかといえば、やはりそれは「思ってたのと違うなあ」って思うに決まっているからである。自分が主役の式典ってあと結婚式と葬式くらいしか残ってないから、自分でなんとかできる結婚式くらい自分の思い通りにやりたい。デキ婚では思い通りの結婚式が挙げられなさそうだからイヤだ。

小学生の時だったか、若宮大路を人力車に乗って鶴岡八幡宮へ向かってゆく花嫁さんを見たあのときから、鶴岡八幡宮でご神木の大銀杏が紅葉する頃に結婚式を挙げるのが僕の夢なのだった。この夢くらいなら、今から頑張れば叶えられるかもしれない。ご神木はもう倒れてしまって根本しか残ってないから、やっぱりあの頃思ってたのとは違う式しか挙げられないけれど、でも、自分の力でなんとかなる部分については、しっかり自分の期待に応えたい。そういう大人でありたい。



とりあえず僕は、結婚式のために貯金を始めた。まだ予定もないんだけど、ね。