生きてると疲れる

疲れたら休む

『ゴーストバスターズ2』を見た

ゴーストバスターズ』がすごくいい映画だったので、すぐに『2』が見たくなってTSUTAYAに借りに行った。

ゴーストバスターズは近所のTSUTAYAに1も2も何本かずつ置いてるのだが、どうも人気らしくて僕が借りたのがラスイチだった。新作が来る前に旧作を見ておこうという、僕と同じ考えの人がみんな借りていったのだろう。

※以下、ネタバレを含みます



ゴーストバスターズ2』は、はじめのほうが理屈っぽくて少し退屈だったけど、ラストバトルに向けての盛り上がりは前作以上だった。

一作目は勢いだけで押し通すのに二作目になるとどうも理屈っぽくなる、そういう作品は多いと思うけどなんでかな。二作目になると予算とかスポンサーとかがいっぱいついて、そういうのを気にしなきゃいけないから物作りが慎重になっちゃうのかな。でも僕は『テッド』も『怪盗グルー』も二作目のほうが好きだよ。

話がそれた。
ゴーストバスターズ2』であるが、ちょっと理屈っぽいかなって思うのは、ゴーストによる赤ん坊誘拐未遂事件から“人の感情に反応する物体”の発見に至るまでの話。最終的には“なぜ赤ん坊が必要だったか”もわかるし“人の感情をエネルギーとする新たな攻撃方法”も見いだされるし、全部アツい展開に結び付くから、理屈っぽさに不満はあんまりない。はじめのほう、ちょっとつまんないかなって思っちゃった理由は「理屈っぽいから」よりも「前作はブルーレイで見たから画質めっちゃよかったのに今作は画質のわるいDVDだから」ってのが大きいかもしれない。仕方ない。


ニューヨークの地下に人々のマイナスの感情を宿したジェル状のものの川があるって設定はすごい都市伝説っぽくて好き。この特殊なジェルは人の感情に反応し、良い言葉とか音楽とか聞かせまくると善の感情エネルギーを宿すこともできる。水伝みたいだなあと思う。マイナスのジェルが赤っぽいピンクなのに対してプラスのジェルは白っぽい色をしていて、その白っぽいジェルを棒状の武器の先端から射出して攻撃するシーンは……正直どうかと思った。
赤ピンクのジェルについて「ラズベリーソースみたいでしょ!食べたくなるでしょ!」っていう我が母もどうかと思う。ジェルわりと気持ちわるいし。


自由の女神が歩くシーンはものすごくわくわくした。まず、攻撃のためにプラスのエネルギーを集めなきゃいけない状況っていうのが良い。そこにシンボルとして自由の女神を持ってくるところが最高。「フランス女だからこの下はきっと裸だぜ」なんて冗談言う余裕があるのも超最高。みんなで自由の女神を応援すると自由の女神が歩く。ヒーローショーで言うところの「みんなで○○を応援しよう!せーのっ」「がんばれー!」と同じ原理だ。プリキュアで言うところのミラクルライトだ。このシチュエーションのおかげで、前作では「上からコンクリートの塊落ちてきて危ないんだから一般市民は野次馬してないで避難しろよ!」って僕に思われていた善良なニューヨーク市民たちに、逃げずにいる理由ができた。「みんなで自由の女神を応援しよう!せーのっ」「がんばれー!」

ニューヨークの街を巨大な自由の女神が歩く。歩く、歩く。最高である。
最近レッドマンばかり見ていたから、ちゃんと巨大感があるというだけですごく喜べる。それに巨女って結構好きなんだよね。

自由の女神が持つトーチに火がつくのも燃えるポイントだよね、火だけに。まだ元気だった頃、アメリカ人がアメリカの正義を信じていられた頃って感じがする。良い。


しかし、あれだなあ。最近巨大戦がある映像ばかり見ているなあ。個人的にウルトラマンシリーズ強化月間を始めたというのもあるんだけど、まさかの『ズートピア』にまで巨大戦(正確に言えば違うけど)があったし、何かそういう気の流れなのかもしれない。


僕的に、自由の女神が歩くシーンが絶頂だったからこれ以上語ることはない。1も2もよかったから女性版にも期待したいけどどうかなあ。

『ズートピア』を見た

先日、話題のディズニー最新作『ズートピア』を見に行った。字幕2D。



元々は、全然見るつもりなどなかった。CMにあまり魅力を感じていなかったからだ。けれど、twitterフェミニズム界隈の方々が絶賛しているのを見て「おっ!フェミ映画なら見ない手はないな!」と思って見ることにしたのである。

事前に情報をほとんど仕入れなかったので、僕はテレビCMで得た情報――「ウサギが警察官になるらしい」「いろんな動物が共生する街らしい」という2つの情報だけを持って参戦することとなった。

「“夢”を見せるような映画なのかな」とぼんやり思っていた。いろんな動物が共生するだなんて、鳥獣戯画か、ジャングル大帝か、あるいは動物戦隊ジュウオウジャーか…。何にしても、動物を擬人化するにあたってひどくデフォルメされてるのは間違いないだろう、そう思った。


※以下、ネタバレを含みます







ところがどっこい。
描かれていたのは重苦しいほどに“現実”そして“現代社会”だった。
デフォルメされているのは動物ではなく、我々人間のほうだった。人間が“擬獣化”されているのである。動物達の見た目や性質は動物のそれをしっかりなぞりながら、それでいて行動様式は人間のものだった。
正直、驚いた。



僕は、昨年就職したばかりだし、地方出身東京在住だから主人公のジュディにとても共感しながら見ることができた。
ジュディから見たズートピアは――きっとアメリカの都市を参考に描かれているのだとは思うけれど――僕が見た東京ととてもよく似ていた。

多様性の溢れる街。
コールドプレスジュースのスタンド。
隣の部屋の音が聞こえる狭いアパート。
職場での悪気のないセクハラ発言。
がんばって入った就職先で与えられるバイトでもできそうな仕事。
仕事をしているだけなのに飛んでくる知らない人からの罵声。
行列ができるアイス屋さん。
詐欺みたいな商売。
都会へ行く娘を心配して連絡してくる両親。

どれもこれも、僕が上京して見聞きしたのとそっくりだった。


ジュディが彼女の父からキツネ避けスプレーを与えられるシーンで、僕は、僕のビジネスバッグについている防犯ブザーを思い出した。僕が職場に配属されてすぐに上司がくれたものだ。「女性が少ない業界だし、女の子が一人でいるのは危ないから外回りのときは持って行って」と。上司が本当に心配してくれていることはわかったし、危険があるというのももっともだと思ったけれど、どこかで“若い女性である”というだけでバカにされているような感覚を拭えなかった。

若い女は甘く見られる。特に、男性が多く女性が少ない場では。

ジュディの通っていた警察学校には、彼女のサイズにあったトイレがなく、ジュディは大型動物用のトイレを無理して使わざるを得なかった。警察学校では、大型の動物しか想定されていないのである。警察署の会議室の机や椅子も大型動物しか想定されていないサイズであり、ジュディには大きすぎた。
女性が男社会で生きていくことの難しさをよく描いていると感じた。


いろいろな差別や偏見を、動物におきかえながら丁寧に、時には深刻に、時にはユーモアをもって描いているのには感心させられる。

ジュディはニックに「ニンジン」呼ばわりされるが、それは赤毛の人をバカにするときの言い方だったのではないか。国柄ジョークは種族ジョークに置き換えられ、肉食動物と草食動物の間の差別には男女差別や民族・宗教に基づく差別、貧富の差から起こる数々の問題を彷彿とさせるものがあった。出身地差別や職業差別などの昔からあり、今でも解決されたとは言えない古典的な差別ももちろん描かれていた。


ニックの回想シーンでは、大学生のときにセクシャルマイノリティのサークルの新歓に行ったときのことが思い起こされた。
あの草食動物達はゲイ男性だ、と僕は思った。
ゲイの方は普段はマイノリティだが、“セクシャルマイノリティ”や“LGBT”のくくりで人を集めたときには最大勢力と化す。そして、他のセクシャリティの方やシスヘテロ女性に対して差別的な取り扱いをすることも少なくないのである。僕はゲイばっかりの環境が気に入らなかったので、2、3回顔を出したが入部には至らなかった。

誰がマイノリティで誰がマジョリティなのかは時と場合によって変わってくる。


ジュディもそうだった。ずっと弱い立場におかれていた彼女が、肉食動物達の失踪事件を解決したことで一躍ヒーローとなったそのとき、ジュディは強者になっていた。そして肉食動物達への偏見に満ちた言葉を口にするのである。
肉食動物は「生物学的に」「本能的に」草食動物を襲うものである、と。しかし、ニックについては「友達だから特別」だと。


「生物学」。セクシャルマイノリティへの差別的発言によく含まれている言葉だ。
「本能」。男性による性犯罪などについて、擁護するときにしばしば用いられる言葉だ。
「友達」。「私には黒人の友達がいる」などと、自分が差別をするような人間ではないという弁解としてよく使われる言葉だ。しかし黒人の友達がいることは黒人差別をしないことの証明にはならない――ジュディのように。

差別は、誰もがしてしまう可能性のあるものだ。悪意がなくても差別は差別だ。そういったことがよく描かれている映画だった。


『ズートピア』の物語は事件の解決とともに終わってしまう。それまでに描かれてきたいろいろな差別の多くは解決を見ない。しかし、最後に“希望”が示される。ニックがキツネ初の警察官になるのである。ジュディが幼い頃から持っていた“あきらめの悪さ”が、他者の運命を変えたのだ。ラストに流れる主題歌も、あきらめないことの大切さを歌っている。あきらめずに挑戦し続ければ、世界をより良いものに変えていくことができるのだ。


いろんな差別が描かれていて、世の中にある差別をほぼ網羅してるんじゃないかと思うレベルだったけれど、よく考えたらセクシャリティ関係の差別はなかったように思う。今、まさにセンシティブな問題だから避けたのかな…。

誰かのためのヒーローになりたい

幼い頃から正義感が強くて、曲がったことが許せないタチだった。

曲がったことが許せないというのは、幼稚園でアニメソングを歌っている友達が歌詞を間違えているのが許せないとかそういうレベルの話である。僕は5歳から公文式の教室に通っていて、字の読み書きを比較的早く覚えたから、耳コピで歌詞を間違えて歌っているやつが許せなかった。だってアニメのOPは歌詞の字幕出てるし、振り仮名もついてるから読めるんだもん。僕はちゃんとそれを読んで覚えてるから絶対に僕の主張するほうが正しい歌詞なのに、「それ違うよ」って言ってみても相手は認めない。それでよく言い争いになった。


小学一年生のとき、算数の授業でお道具箱に入っている数え棒で三角形を作らされた。何通りできるかやってみろというのである。数え棒は長さが3通りあって、単純に棒の3本ずつの組み合わせなら10通りできる。しかし、実際に三角形を作ってみて僕は気付いてしまった。一番長い棒は一番短い棒のちょうど二倍の長さだから、三角形が作れない組み合わせがひとつあるのだ。先生は、この事実を子供たちに発見させようとしているのではないか、と僕は思った。辺の長さがそれぞれa、b、cである三角形はa+b>cのときでないと成り立たない。

しかし現実は違った。「9個です」と答える僕に先生は「もうひとつあるんじゃない?」と返した。僕は小学一年生なりの語彙を駆使して、a+b=cである組み合わせでは三角形は作れないのだと懸命に説明した。説明し終えて、先生も僕の賢さを認めざるを得ないだろうと思った次の瞬間、僕は絶望することとなった。先生はこう言ったのだ。「でも、棒の先をぴったり合わせるんじゃなくて、ちょっとずらせば三角形はできるよね?」。この言葉によって僕は“学校の先生”というものを嫌いになった。先生は永遠に僕の信頼を失った。


世界には、貧困があり地球温暖化がありゆとり教育がありガラスの天井があった。何もかも間違っていると僕は思った。正義の執行者たるヒーローに憧れた。強く強くなりたいと望んだ。
しかし、あるとき、僕は自分が世界を救う将来ビジョンを全く思い描けないことに気付いた。
自分一人の力では世界を救うことなんてできないんじゃないか、そう思うと涙が出てきた。風呂上がりに泣いている僕を見つけて母は心配したが、僕から理由を聞き出すと呆れ返っていた。中二の頃である。


同じ頃、僕は『仮面ライダー響鬼』と出会った。この出会いが僕の人生を変えることになるのだ。

ヒビキさんは、僕がそれまで考えていたようなヒーロー――勧善懲悪的な正義の執行者ではなかった。
ヒビキさんは、「人助け」のために戦っていた。そして、その背中を少年に見せるヒーローだった。
少年はヒビキさんに憧れるが、同じ道には進まない。しかしヒビキさんと同じ“人助け”のために医師を目指すのだ。


ヒビキさんみたいに“人助け”をすること。そして“誰かの憧れになること”。それなら、できるかもしれないと思った。自分一人の力で世界が救えなくても、少しだけ世界をマシにすることならきっとできる。次の世代に希望をつないでいくこともできる。きっとできる、いや、できるようにならなきゃと強く思った。


僕は、日曜日に早起きをするようになった。仮面ライダーを見るために。

愛するものを全力で守り抜くことを仮面ライダーカブトが教えてくれた。
仲間がいれば強くなれるって、仮面ライダー電王やダブル、フォーゼが教えてくれた。
世界に対する愛情表現のやりかたを仮面ライダーディケイドが教えてくれた。
自分の手の届く範囲で人を助けることが大事だって仮面ライダーオーズが教えてくれた。
自分自身が誰かの“希望”になることができるって仮面ライダーウィザードが教えてくれた。

そういうものになりたいと思った。


就活のとき、エンタメ系の会社をいくつか受けて、箸にも棒にもひっかからなくて、そこでようやく僕は「架空のヒーローを作って夢を与えたい」のではなく「現実のヒーローになって人々に希望を与えたい」のだと気付いた。
市井のヒーローになりたい。
そう、たとえば…子供に憧れられるおとうさんになりたい。


だからこうして、今は、エージェントとして働いている。エージェントは世界のバランスをとる仕事である。いろんな人に会って、いろんなところに行って、需要と供給のバランスをとっていく。
架空のヒーローとは違う、あくまでも現実に向き合う仕事である。地味な仕事と言えばそうかもしれないが、手の届く範囲にいる人を自分の力で助けることができる。ヒビキさんと似ている仕事だと思う。少しずつ、手の届く範囲を大きくしていきたい。自分の力ももっと強くしていきたい。ヒビキさんみたいに、鍛えることを怠らずに。
これからなんだ。僕はこれからヒーローになるんだ。そう思うとわくわくする。

そういうわけで、僕は仮面ライダー響鬼放送から10年以上たっても、ヒビキさんの背中を追い続けているのだ。

『ゴーストバスターズ』を見た

ブログを始めたら、映画を見たときには必ずその感想をブログに書くようにしようと思っていたのだが、今日その時が来た。
ゴーストバスターズ』である。

しかし、『ゴーストバスターズ』について言いたいことはだいたいtwitterに書いてしまった。同じことをもう一度書くというのも面倒なので、twitterからの引用で済ませることにする。






ゴーストバスターズの新作については、日本語版主題歌とかの不安要素もあるようだが、とりあえず僕は2を見ようと思う。

明日は『ズートピア』を見る予定。たのしみ。

生きてると疲れる

今週のお題「私がブログを書く理由」

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このブログは、みんな知ってると思うけど『生きてると疲れる』っていうタイトルなんだ。
でも、最近始めたばっかりだから「生きてると疲れる」でググっても出てこないのは上の画像参照のこと。僕のブログが出てこないかわりに、世の中ではいろんな人が生きることに疲れている様子を見ることができる。

生きてると疲れる。

活動してると疲れるのは当たり前のことだと思う。僕なんか疲れやすいから、寝たって疲れるしごはん食べたって疲れる。人と会っても疲れるし誰にも会わないで一人でいても疲れる。僕の人生は常に疲れとともにある。
仕方ないよね。
僕は、疲れるのはそんなに嫌いじゃない。なんか、やりとげた感とかあるじゃん?疲れてるときのあまいものとか最高じゃん?今日はがんばったからコンビニでエクレア買っちゃお、みたいな。


疲れるのは、当たり前。疲れるのは、仕方ない。
そこは割りきっちゃった方がいいと思うんだよね。

死なない程度に、がんばって生きていく。
疲れながらも生き続けていく。
それを発信していく。
そういうブログです。


生きるのしんどいなあって思ってる人がうっかり僕のブログを見つけて、なんとなく読んで、僕みたいな人の存在を知って。それで何か深く考えたり考えなかったりするきっかけになれたらうれしいなって。
そういうためにブログ書いてます。

だから、とりあえずの目標は、ググったら出てくるようになること。
死なない程度に、がんばります。

大人になんかなりたくなかった

僕はトイザらスキッズだから大人になんかなりたくなかったんだけど、あるとき親父が大量のおもちゃを買って帰ってきて「俺は大人買いするために大人になったんだ!」って宣言するのを見てから、大人になるのもまあわるくないかもなって思うようになった。


そんな僕も今では大人。
好きなものを大人買いできるほどのお金はまだ持っていない。


そもそも、“大人”ってなんだろう。

社会から“大人扱い”されたら、その人は“大人”である。“大人”らしくあることが期待される。

“大人”として生きていて感じるのは、“大人”にはいろんな義務とか責任とかがあって大変だということ。“大人”ってなんか、思ってたより自由じゃない。
それから、空気を読んだり人を気づかったりする能力とか、いろんな場面でのマナーとか、そういうものを身につけていることは世間から当然のように求められるのに、それらは“大人”になったら自然に身につくわけじゃないってこと。これはよく考えたら当たり前なんだけど、僕は愚かだから“大人”になってからはじめて気づいた。僕は傍若無人がニーソ履いて歩いてるような人間なので社会からの期待にまったくこたえられず、とても苦労している。

母には「君の教育は失敗だったけど君はもう大人だからマナーが身についてないのは全部君の責任」などと言われる。ひどい。


それと、なんか、たいていの大人はセックスをする。恋人とだったり、セフレとだったり、風俗のおねえちゃんとだったり。そして、普段はそんな話しないのに、酒を飲むとセックスの話をしはじめるやつが少なくない。僕はセックスをしたことがないんだけど、飲み会でセックスの話題が出てくると「もう大人なんだからセックスしたことないやつとかいないでしょ」って感じで話が進行していくから混ざれない。

それから、タバコを吸う“大人”も多い。僕はここまでの人生でほとんどオタクとしかコミュニケーションしてこなかったから同年代の喫煙率を甘く見てたんだけど、オタクじゃない男はけっこうタバコを吸う。タバコというのはお金のかかるものである。僕は、(僕の観測範囲にいる)オタクの喫煙率が低いのは、そんな金があったら玩具や円盤を買うからだと推測している。逆に言えばタバコを1日に何本も吸うやつは大した趣味を持っていなさそうだし、タバコなんか吸っても黒くなった肺しか残らないのにそんなものに金をつかうなんて、僕とは価値観が違いすぎて仲良くなれる気がしない。タバコの匂いとか雰囲気とかはわりと好きだしタバコがもっと安かったら僕も手を出していたかもしれないとも思うんだけど、高すぎるでしょタバコ。


そんなこんなで、幼い頃から苦手だった“人付き合い”が、大人になってからさらに苦手になってしまった。小学生の頃は「べつに友達少なくても体育以外オール“大変良い”だしいいっしょ」って思ってたけど、なんか“社会”って僕のような人間に向けて作られてないのがわかってきた。“社会”は、たくさんの“人付き合い”から構成されているんだ。

やっぱり、大人になんかなりたくなかったかも、と思う。

母に相談したら「君は全部本当のことを言おうとするからダメ。アバターみたいな感じで“大人の自分”をイメージして作り上げて、それを演じればいい。私もそうしている」と教えられた。そういう大事なことはもっと早く教えてほしかった。
twitterはてなブログは棚橋祐季/魔法少女ゆっきたーん名義でやってるけど、Facebookは本名でやってて、ちょっと外向きの私って感じだから、Facebookの私のキャラクターに肉付けしていけばまあ、なんとかなるかなって思う。そうしたらきっと、厳しい社会の中もなんとか歩いていける。

社会の荒波をがんばって乗り越えて、大人買いしまくれる財力を手にしたい。親父みたいな大人のオタクになりたいんだ俺は!

30歳までには

「彼氏いるの?」「いません」。
「結婚願望はあるの?」「…まあ、30歳までには、って思ってるんですけどね」。

“30歳までには”。これは“結婚の話題はこれでおしまいにしましょう”という意味のおまじないである。


20代も半ばにさしかかってくると、親戚とか職場の人とか――つまり、“あまり親しくない人たち”から、結婚の話題をふられることが多くなってくる。
正直、つかれる。
“あまり親しくない人たち”にはカミングアウトしてないから、頭をフル回転させて“一般的なシスヘテ女子が言いそうなコメント”を出力しないといけないからだ。

“あまり親しくない人たち”は、どうして“結婚”を“あたりさわりのない話題”としてチョイスしてくるのだろうか。“結婚”なんてあたりさわりありまくりだぞ。プライベートもいいとこだぞ。日本国憲法では婚姻は両性の合意のみに基づいて成立することになってるんだぞ。


“結婚”の話題をふられる度に、僕は戸惑う。

“結婚”なんて、もっと大人になってる人がするものだと思ってた。僕にはまだ関係のないことだと思いたいのに、僕は気が付いたら25歳になっていて、母が結婚した年齢を越えてしまっている。
Facebookで昔の同級生がいつのまにか結婚して子供までできてることを知ったりする。
親戚の集まりに行けば、祖母に「ユキちゃんの結婚式に出たい!」などと喚かれたりする。


結婚式には興味がある。神前式がいいなって子供の頃から思ってるのは、いつか鎌倉に行ったときに見た鶴岡八幡宮での結婚式が素敵だったから。インターネットでときどき見かける、オタク丸出しの披露宴もたのしそうでいいなって思う。余興でヒーローショーは絶対にやりたい。

でも、自分が“結婚”したいかどうかっていうのは、自分でもよくわからない。
逆に、客観的に見て棚橋祐季と結婚したいかと問われれば、答えはNOだ。棚橋祐季はメンヘラだし、重度のマザコンだし、めんどくさいオタクだし、人に気をつかえないし、無駄に正義感が強いし、非常識だし、傍若無人がニーソ履いて歩いてるみたいな人間だからだ。
だから、つまり、そういうよくないところを改善しなければ、「結婚したいかしたくないか」なんて問いは無意味であって、仮に結婚したくてもできないんじゃないかなって思う。

もうすこし、自分一人で立って生きていけるようにならないとなあ、って思う。まあ、30歳までには。