生きてると疲れる

疲れたら休む

神社ってしんどい(ジェンダー的に)

お盆だった。
父と母と、祖母と、京都に墓参りに行って、ついでに観光してきた。


母の希望でいくつかの神社に行った。京都って寺が多いイメージだけど、なにしろ歴史があるから有名な神社もけっこうある。北野天満宮貴船神社下鴨神社と八坂神社と。それで、神社ってしんどいなあと改めて感じた。

下鴨神社の境内に河合神社というのが鎮座していて、これが母のお目当ての一つだった。これは日本一の女性守護の神様であって、美しくなることにききめがあるとのことである。なんか、「女性は美しさを求めるもの!」っていうの、しんどいなあと感じながらお詣りした。

それから、なにしろ女性守護の神様であるから女性守護の“媛守り”なるお守りがあるんだけど、それに対して男性守護の“彦守り”なるお守りも置いてあってしんどいなあと思った。なんか、「あっ、僕守ってもらえないんだ」って感じてしまった(僕は性自認が不定)。“媛守り”オンリーだったら「まあ女性守護の神様だもんね」ってスルーできたのかもしれないんだけど。

さらに、縁結びに効き目があるスポットもあるんだけど、例によって例のごとく“恋みくじ”が置いてあって、見てみると“男性用”・“女性用”に別れているので僕は憤慨した。恋に男も女も関係あるかいな。平安時代じゃないんだから。

神道の神様って、太古には両性具有だったと大学の時に習った覚えがある。何代目かにイザナギイザナミの男女二柱に別れて、それから国作り神話につながるのだ、と。
神社に祀られてるのは神代の神様でもイザナギイザナミ以降の神様がほとんどだし、実在の亡くなった方を祀ってることも多いから、たいていの神社の神様には性別がある。明治期に国家神道が確立して、それは家父長制の確立とワンセットのものだったろうから、神社が男女にこだわるのは仕方ないのかもしれない。

仕方ないのかもしれないとは思うが、やはりしんどいものはしんどい。“天皇家の繁栄を祈りましょう。”だの“教育勅語です。問題ありません。ご自由にお取りください。”だの、そんな国家神道の名残が感じられる掲示物たちにもしんどさを感じながら僕は神社を去った。


京都旅行の最終日、特に予定もたてずに街をうろついた。街の中にも寺社がたくさんあった。

そんななか、“女人往生”と書いてある石柱に目が止まった。“女人往生 さかれんげ阿弥陀如来”。安養寺というお寺さんだった。「是非お詣りしていこう」と、母と二人で足を踏み入れた。

なんでも、昔、女人は往生できないとされていた時代に女人のための阿弥陀さまをつくろうとした坊さんがいたらしい。えらい。それで像を作るのだが、何度やってもうまくいかず、蓮華座を上下逆さまにしてみたらうまくできたので“さかれんげ阿弥陀如来”ということになったのだそうだ。
ご本尊に近づくことはできず、遠くからでは蓮華座が逆さになっていることは確認できなかったが、とにかくえらい坊さんであるなあと思ってお詣りした。


女人は往生できないというのは、仏教が中国経由で日本に入ってくる間に形成された考え方で、本来的には仏教は男女平等である。男女平等どころか「性別には、男・女・男でも女でもある・男でも女でもない、の四種類がある」なんて考え方まである。これは大学の時に仏典を読む講義で読まされた文章のなかに出てきたもので、僕は驚嘆したのだが、愚かだったので出典を控えるのを忘れていて今でも後悔している。出典がわかる方がいらっしゃったら教えてください。

法華経には“龍女成仏”という話が載っていて、ようするに「人間でなくても、女でも、成仏できる!」という話である。龍女ちゃんが成仏するとき「たちまち股間に男性器が生えて成仏しました」っていう描写があって、「やっぱり女性は男性を経てからでないと成仏できないのだ」という説と「両性具有になった・性別を越えた存在になったという意味の表現である」という説とがあるらしい。僕は後者が正しいんじゃないかなあと思うんだけれどどうだろうか。まあ、仮に龍女ちゃんが成仏するとき一時的に男になってたとしても一瞬のことだし、女性が成仏できることには間違いない。

蓮華座を逆さまにしたらうまくいったという話には、国作り神話の「イザナミ(女神)がイザナギ(男神)を誘ったらうまくいかなかったけれど、イザナギイザナミを誘ってみたらうまくできた(子作りのときは男から誘うようにしましょう)」ってくだりを思い出して微妙な気持ちにはなったけど、女人は往生できないとされていた時代にも女人往生のための阿弥陀さまをつくった坊さんがいたというのには希望が持てる。やっぱり仏教っていいな、救いがあるな、なにしろすべての衆生を救う宗教だからな、と、仏教への信心をあらたにして、僕の京都旅行は終わった。