生きてると疲れる

疲れたら休む

自由に生きるということ、あるいは、魔法つかいプリキュアは何のために戦うのか

“自由に生きる”。


このあいだ、『アリスインワンダーランド 時間の旅』を見てから、ずっと“自由に生きる”ってどういうことだろうって考え続けている。

以下、いろいろな作品のネタバレを含みます。



アリスが、チャイナ服でパーティーに行くシーンは、すごく“自由に生きてる”って感じがした。他のお客さんたちはみんなふつうにドレスで着飾っているのに、一人だけ中国で買ってきた中国の正装でパーティーに乗り込む、招かざれる客・アリス。めっちゃかっこいい。

“中国の正装”というのは、前作で窮屈なドレスを嫌がっていたアリスの出した結論として納得のいくものだと僕には思えたし、船に乗って長い旅をして、成長したアリスを象徴するものでもあった。すごくカラフルでキュートで、ワンダーランドに行ってからもアリスの存在感は抜群だった。前作のアリスは巻き込まれ型の主人公だったが、今回は違う。大切な友人のために自ら時間の旅に赴くのである。


“自由に生きる”って、きっと“自分自身や自分の大切なもののために一生懸命がんばる”ってことだ。険しい道程かもしれないけど、がんばらなきゃ自由になれないんだ。


シン・ゴジラ』で「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」というメッセージを受け取った者たちは、何をしたか。総力をあげてゴジラを凍結し活動を停止させたのである。不眠不休で働く政治家や官僚たちは、めっちゃかっこよかった。彼らは国民のために働くのが仕事であるとはいえ、あそこまでの総力戦が可能になったのは、やはりゴジラを倒したい気持ちがひとつになったからだと思う。気持ちと、尊厳と、プライドを守るための戦い、“好きにした”結果だと思う。ゴジラを倒さなければ、自由に生きられないんだ。



自由に生きること、好きにすること、これはトレンドなのかもしれない。と、最近思う。いろんな人、いろんな個性、いろんな生き方が社会的に認められてきて、その流れのひとつなのかな。



いろんな個性といえば『魔法つかいプリキュア!』である。「その違いが素敵だって今なら言える」。
ここでみなさんに思い出して欲しいのが、『ふたりはプリキュア』のED『ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!』の歌詞である。

「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃない?!の?」

魔法つかいプリキュア!』の戦い方は、この歌詞への11年目のアンサーなんじゃないか、と僕は勝手に思っている。


「今年のプリキュアは何のために戦っているのかわからない」と僕の父は言った。Twitterなんか見てても、(百合クラスタ以外の人に)そういう感想が多いように思う。
確かに、『魔法つかいプリキュア!』は今までのプリキュアと少し違っている。変身アイテムにもなる妖精さんのポジションは“元からこの世界にあった”クマのぬいぐるみだし、プリキュアにお世話される妖精さんは主人公たちと同じくらいにまで成長してプリキュアになってしまう(この展開はおジャ魔女どれみ先輩がやってたか)。
異世界の妖精さんが、ゴーオンジャーのボンパーやアバレンジャーのアスカさんみたいに「異世界がピンチだしこの世界にも魔の手がのびてきているから2つの世界のために戦って欲しい。あなたが伝説の戦士プリキュアの適合者です」って言いに来るのがいつものプリキュアだけど(プリキュアシリーズは今までそんなに真面目に見てなかったから間違いがあったら教えて欲しい)、まほプリは2人が出会って手を繋いだら奇跡の力で変身しちゃうし、そもそもまほプリは“伝説の戦士”ではなく“伝説の魔法つかい”だ。戦うために選ばれたソルジャーではないのである。


では、なぜ戦うのか。

一応の名目としては「リンクルストーンエメラルドが敵の手に渡らないようにすること」というのがあるし、リコちゃんがナシマホウ界に来る理由も「エメラルドを探すため」だったが、彼女たちが本当に守りたいのは友情や愛情である。
自分の大切なものを、守るために戦うのである。


象徴的なのが第1話の「キュアップラパパ!怪物よ、あっちへ行きなさい!」である。自分とか家族とか友達とかがいるところで暴れられたら困るけど、そうじゃないなら別にいいのである。

プリキュアは自分の大切なものが被害にあうと怒る。そして、プリキュアは悪いものを浄化するパワーを持っているから、それに対処するべく変身する。シンプルである。地球のためとかみんなのためとかではなくて、自分の大切なもののために戦うのである。

魔法つかいプリキュア!』は、どちらかといえば『美少女仮面ポワトリン』みたいなご町内モノの魔法少女(東映不思議コメディシリーズはほとんど見れてないので違ってたら教えてください)なのではないかと僕は思う。ついでに「ナシマホウ界で魔法つかいだとバレたらカエルにされてしまう」なんて設定をつけておけば、みんな「戦う意義がわからない」なんて言わずに「なんだ、ご町内モノか」って納得してくれたんじゃないかな。

あるいは、妹を守るために戦うついでに世界も救ってしまった『仮面ライダーカブト』にも似ているかもしれない。


みらいとリコは「一生一緒だよ!」なんて言い合う仲だし、はーちゃんは「私たちのはーちゃんに手を出させない!」って完全に娘扱いだし、モフルンはみらいがちいさいときからずっと一緒にいるし、もはや明らかに百合カップルを超えた百合ファミリーなので百合クラスタは大満足である。百合クラスタの視点で見れば、プリキュアが何のために戦っているのかは明らかである。ファミリーのためだ。

クマのぬいぐるみでも市民権を得て子供が得られる時代だし、日本でも同性パートナーシップが認められるようになってきている動きがあるし、案外、百合クラスタの見方が正しいのかもしれないなってちょっと思ったりもする。


僕は中学生の時に「僕は女の子が好きかもしれない!」って気付いて、すこしだけ悩んだりもしたけど、そんな僕の心を救ってくれたのが『ふたりはプリキュア』と『特捜戦隊デカレンジャー』の百合同人だった(藤P先輩は心のなかで抹殺した)。中にはシリアスなものもあって、なぎさとほのかが学校で「わたしたち付き合ってます!」ってカミングアウトするシーンは強烈に記憶に残っている。強いレズビアンである同人誌のなかのプリキュアは、思春期の僕のヒーローだった。強いレズビアンになりたいと思った。その後、自認は二転三転して「バイセクシャルの不定性」におちつくのだが、それはまた別の話。


自由に生きるって、難しい。日本国憲法にも、自由に生きるには不断の努力が必要って書いてある。努力しなければ、自由になんて生きられない。



できれば、仲間が欲しいなあって、最近思う。一緒に努力してくれる仲間。ここまでいろんな映像作品の名を挙げたが、どの主人公にもみんな仲間がいた。
仲間を得るにも、努力が必要なんだろうなあ。がんばらなきゃなあ。