生きてると疲れる

疲れたら休む

WASEDA LGBT ALLY WEEKがなかなかわるくないイベントだった件

WASEDA LGBT ALLY WEEKというイベントが我が母校で開催されるという情報をtwitterで見つけて、僕が最初にしたのは、“心配”だった。僕の知らない、僕に似ている、在校生の“誰か”が、傷つけられるのではないか。そんな心配だった。



早稲田大学LGBTセンターを作ろうという企画があることは以前から知っている。たぶん、僕がまだ早大生だったとき。早稲田大学のこれからを考えて企画をプレゼンし合うイベントで、優勝すればその実現化に向けて動き出すことになっていた。そして、LGBTセンターの企画が優勝したのだった。

そのとき、Facebookか何かにアップロードされていたその企画のPR動画には、人間を「LGBT当事者」と「非当事者」に二分する考えが含まれていて、僕はそれを見て怒ったのを覚えている。LGBT以外のセクシャルマイノリティは無視されてしまうのか?LGBTではない人はすべて非当事者なのか?セクシャリティと差別や偏見の問題は、人権の問題であり、みんなの問題であるのではないのか?
怒ったから、怒りのツイートもした。僕もまだ、今よりいくらか若かったしね。なんだかんだで愛してるしね、我らが母校。その母校で、センシティブな問題が、キラキラな意識タカイタカーイ人たちに取り扱われることは不安でしかなかった。
そのときの僕の声は、たぶん、その企画をした人たちには届かなかった。



それから数年後である。WASEDA LGBT ALLY WEEKが開催されることを知らせるツイートがTLに流れてきたのを見て、もう卒業生である僕は「後輩たち相変わらずキラキラしてるなあ」と思いながら、ツイートの中のリンクをタップしたのだった。リンク先はそのイベントのウェブサイトで、LGBTとは何か、ALLYとは何か、なんの目的のイベントなのかなどが書かれていた。

僕はそれを見て、唖然とした。

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“ALLY(アライ)とは?「LGBTの支援者、理解者」として使われることが多い言葉ですが、本イベントでは「LGBTのことをよく知らないけどイイと思っている人」のことも含めています。”

「イイ」?「イイ」ってなんだ?
僕は、やはり怒らざるをえなかった。
「イイ」ってなんだよ、と。人権の問題なのに、そんなに軽々しい扱いなのかよ、と。


僕は、セクシャルマイノリティの友人たちと情報共有、というか怒りの共有がしたかったから、再び怒りのツイートをした。ところが今回は前回とは違って、僕の怒りのツイートが何人かにRTされるうちに、届いてしまったのだ――イベントの中の人に!

彼女は言った。「LGBT当事者って誰だよ」と。「当事者は命かかってんのか」と。
彼女も怒っている様子だった。

なんて無理解な人!と僕は思った。

僕が怒っていると、一緒に怒ってくれる人がいた。優しくなだめようとする人や、冷静に考察しようとする人もいた。たまたまtwitterに人が多い時間だったのも手伝って、初めは僕の個人的な怒りだったはずのものが、いつのまにかプチ炎上の様相を見せてきた。

そんな中で僕は、自分が根本的な思い違いをしていることに気付いた。

「イイと思っている人がアライ」だなんて雑な定義づけをする人たちの中にセクシャルマイノリティがいるなんて思えなかったから、絶対こんなイベントをやるのは意識高いシスヘテの人だとばかり思っていたのだけれど。僕の勝手な決めつけだった。

彼女はセクシャルマイノリティの一人だった。
彼女は、まだ自分のセクシャリティをどのように表現すれば良いか知らない、セクシャルマイノリティ界隈との繋がりもまだあまり深くない、あの頃――大学に入ったばかりの頃の、僕だった。

(あなたには、僕の知らないあなたの事情があるでしょうし、ここに書いたことにもまだ僕の誤解が含まれているかもしれない。それなのに、そのうえで、勝手に自分に重ね合わせてしまってごめんなさい。でも、そんなふうに感じたことを、誰かに伝えたかったんです)

彼女の「LGBT当事者って誰だよ」は、“自分は含まれているのか?”という戸惑いだった。「当事者は命かかってんのか」は、“命かかってると思える人じゃないと当事者を名乗れないのか?”という疑問だった。

そしてそれは、彼女こそが、僕が傷つけたくなかった“誰か”でもあることを示していた。
……セクシャルマイノリティへの差別は勝手な決めつけによるものが少なくないと思うんだけど、僕はその“勝手な決めつけ”によって、一番傷つけたくない人を、傷つけてしまった。

僕は、もう少し注意深くあるべきだった。反省した。




WASEDA LGBT ALLY WEEKとされる週になると、やはり気になって、僕は展示を見に行くことにした。

正直、本当に見に行ってみるまで不安だった。自分を励ますために、「PRIDE」の文字が刻まれたレインボーのシリコン製リストバンドと、自作のレインボーイヤリングを身につけて出かけた。

……杞憂だった。


アライの定義は、このように訂正されていた。

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LGBTのことをよく知らないけど知りたいと思っている人、応援したいと思っている人」
セクシャリティは問いません」
「誰もが誰かのALLYになれる」


素敵だと思った。
「よく知らないけど知りたい」というのは“無知の知”って感じがして、この定義のアライなら自分の考えるLGBT像を押し付けてくるような振る舞いはしないのだと思える。
セクシャリティは問わない」というのは、この定義のアライならば「私はLGBTのサポートをしているが、私自身はアライであり、LGBTではない」などと聞かれもしないのに強く主張するような振る舞いはしないのだと思える。
そうやって、差別的な人を注意深く除いた定義づけである、と感じた。そのうえでの“アライの可視化”である。有意義なことだ。


学生会館のいつもの風景のなかに、六色レインボーで彩られた“アライ”達のポスターが掲示されていた。
綺麗だった。





僕個人の感想としては、概ね、良い企画だったと思う。

権利とか差別の問題には踏み込まず、「ふつう」とか「ちがい」について考えようというのは、小学生みたいなお題だとは思ったけれど、これで終わりの企画じゃない、ここから何かが始まるための企画なんだと考えると、良いスタートだったんじゃないかと思う。

セクシャルマイノリティと社会の間のいろいろな問題について、正面突破してやろうという気概、みんなの問題だからみんなで考えるべきだという意識、すごく学生らしくて良いと思う。



老害だから3号館で迷子になった話をツイートしてたら、ダイバーシティ早稲田さんからリプライもらえたのが、個人的にちょっとおもしろかった。
ダイバーシティ早稲田さんはプチ炎上の翌朝フォローをキメてきたからフォロー返ししてたんだけど、もう卒業して一年以上たつのにそうやって時々現役早大生との新しい繋がりができるの、なんかうれしい。一緒に早稲田をより良くしていこうぜ!って思う。

僕たちはそのラーメン屋が大好きだった

昨日、大学生の頃はサークルの仲間と一緒に週一くらいのペースで通っていたお気に入りのラーメン屋がつぶれているのを発見して、驚きと共に大きな悲しみが僕を襲った。僕はすぐにtwitterで報告して、サークルの仲間と悲しみをシェアしたのだった。

最近、ずっとお店が閉まってるのは把握していたのだが、ゴールデンウィークで学生が少ないから閉めてるのかなくらいに考えていたので、まさかそんなことになるとは思わなかった。看板がかけかわっていて、“新規オープンにつきスタッフ募集”の張り紙がしてあって、中では工事が進められていた。違うラーメン屋になるらしかった。張り紙をよく見ると社員の待遇が僕の今の仕事よりも良かった。ラーメン屋ってキツいのかな、と僕は思った。


僕は大学受験に失敗して、一浪したものの、結局第二志望の大学に入った。
はじめは不本意だったが、入ってみれば良い大学であり、良いオタサーもあり、良いオタクたちとの出会いもあった。僕の大学生活はほとんどサークル活動に費やされた。遅れてきた青春が、そこにはあった。

週の半分はオタサーのみんなで晩ごはんを食べた。早稲田通りはラーメン屋ばっかりだった。僕にとってラーメンは苦手な食べ物のひとつだったのだが、一年生のときにサークルの仲間たちと一緒にラーメンを食べに行くことになり、腹をくくってラーメンを注文して、食べてみたら案外美味しかった。そのときのラーメン屋が、先述したラーメン屋である。
それから、僕はラーメンが好きになった。

ラーメン嫌いを克服した僕は、他のラーメン屋にも行ってみたけれど、やっぱりそのラーメン屋が一番だった。少食だったはずの僕が、その店では必ず大盛りを頼んだ。学生は大盛り無料だったからね。

あとから考えてみると、横浜家系ラーメンの“とんこつ醤油味”が僕の味覚にヒットしたのだと思う。普通の醤油味とか、あるいは背脂系のラーメンなどは今でもちょっと苦手だ。
それから、ラーメンはのびるとまずくなるということが、僕をラーメン嫌いにさせていたのだと思う。僕は猫舌なので熱い食べ物はさまさないと食べられないのだが、さめるのを待っていたらラーメンはのびのびになってしまうのだ。とんこつがうまい具合に熱さを和らげてくれるから、横浜家系は食べられるのだと思う。あと、麺が太めなのがさめても美味しくて好きだ。それからほうれんそうと卵と海苔が良かった。本当に美味しかった。


僕たちはそのラーメン屋が大好きだった。みんなで行く日もあったし、2、3人で行くときも、1人で行くときもあった。大勢で行って「テーブル席空いてますか?」と聞くことがしょっちゅうあったので、しばらくするとお店の人は僕たちが来るのを見ただけで、テーブル席に案内してくれるようになった。
僕たちの新歓ブースに、そのラーメン屋でバイトしてる人が「いつもありがとうございます」と、わざわざ言いに来たときはみんなびっくりしたね。


僕はtwitterで知り合った友達に高田馬場でオススメのラーメン屋を聞かれると必ずその店の名を挙げたし、実際にtwitterの友達を連れていったこともあった。母も連れていった。記憶が曖昧だが、中学からの友達も連れていったように思う。恋人がいたときにも、何度か2人で足を運んだ。“女子会”と称してサークル同期の女子をあつめておしゃべりする会を僕たちは何回か開いたが、第2回の開催地はそのラーメン屋だった。ラーメン屋で恋バナをした。


そんな、僕たちの青春を象徴すると言っても過言ではない存在だった。ラーメンは美味しくて、いつも陽気な変な音楽がかかっていて、水がピッチャーで出てきて、良い店だった。僕たちはいつも長居して、真面目な話から会話のドッジボールまで、いろいろな話をした。
とっても青春だった。


社会人になってからも、ときどき無性に食べたくなって、何度か行くことがあった。サークルの同期のみんなもそれぞれに時々行っていたらしい。
会社帰りのスーツ姿で行ってるのに「学生は大盛り無料なんですけどどうしますか」って聞かれるのが可笑しかった。なにもかも、いつも通りのラーメン屋で、大学生時代の思い出に浸りながらラーメンを食べるのが好きだった。

そんな些細な幸せも、もうなくなってしまったかと思うとさみしい。けど、過去ばかり見ていても仕方ない。先に進まないと。
さよならだけが人生だ。




さようなら、僕たちの母校、とんこつ大学馬場キャンパス。

ロマンティックラブイデオロギーと僕

今日もまた、Facebookに中学の同級生の結婚しました報告が流れてきたから、僕はFacebookをやめたくなった。


最近しょっちゅう結婚報告が流れてくる。昔は仲良かったけど今はほぼ音信不通なやつとか、かつてクラスメイトだったことがあるのは確かだがたぶん一言も喋ったことのないやつとか、正直誰なのか全くわからない友達の友達らしきやつとか、そういうやつがどんどん結婚していく。

まあ、ようするに、今でも付き合いが続いている友達は全然結婚なんかする気配がないってことでもある。僕自身と同じようにね。

だってまだ24、5歳だぜ? 大学出てまだ1年や2年なのに、普通、しないでしょ結婚? 僕みたいなやつに“普通”が語れるとも思われない? それは一理あるかもしれない。


Facebookを離れてtwitterに帰ると、ラブラブな女性同士のカップルとか、同じ同性愛者でも非リアなやつとか、オフパコしまくってるやつとか、婚姻制度は廃止すべきだと主張するやつとか、オタクで童貞なやつとか、オタクで非童貞なやつとか、オタクで童貞なやつとか、いろいろいる。“多様性”ってものが感じられる。ほっとする。みんなみんな生きているんだ友達なんだって感じがする。


考えてみると、結婚報告を見て「怖い!」と感じてしまうのは、そこに“(異性との恋愛)結婚は(無条件で)良いもの”という価値観が存在しているからだ。その価値観に、僕はのれない。その価値観は、“(異性との恋愛)結婚”をしない人への攻撃に、簡単に繋がってしまいかねないからだ。
結婚式のキラキラした写真と、コメント欄に溢れるたくさんの「おめでとう」。強力な“ロマンティックラブイデオロギー”を感じる。

昔から思ってたんだけど、“ロマンティックラブイデオロギー”って必殺技っぽい。ヴィーナス・ラブ・ミー・チェーンみたいな。
「くらえ!ロマンティック・ラブ・イデオロギー!!!!!!」
「ぐわあああ!!!!」
って感じ。あ、くらってるほうが僕ね。

このようにして僕は、Facebookをやめたくなる。



そもそも、結婚っておめでたいのか? そのあたりが僕にはよくわからない。

気の合う恋人との共同生活、二人の生活を守る法的な保証、それらは、それらを望む人にとっては魅力的だし必要なものだと思う。結婚を宗教的に、あるいは社会的に承認させる結婚式や披露宴も、望む人にとっては魅力的だし必要なものだと思う。
望む人が、望むようにその権利を手に入れ、儀式を執り行うことができることは喜ばしいことだ。でも、“おめでたい”ことなのかどうかっていうのは、よくわからない。


僕の結婚観は、身近に結婚離婚を繰り返している人とか、夫の親類との付き合いのために消耗していく人とかがいることによって、だいぶネガティブ寄りのイメージになってしまっている自覚はある。世の中にはいろんなカップルがいるし、うまくいってばっかりな結婚もあるのかもしれない。でもそんなのは、あったとしても少ないだろう。結婚って終わりじゃなく始まりだし、始まったら何が起こるかわからないのに、それに対するコメントを「おめでとう!」で済ませちゃうのはなんか無責任なんじゃないか。少なくとも「よかったね!これからがんばって!」くらいは言うべきなんじゃないか。

結婚を無条件におめでたいと思っちゃう人ってのは、昔の“ムラ社会”とか“イエ制度”とかの、結婚したら一人前みたいな価値観を引きずっているんじゃないかな。あるいは、結婚がハッピーエンドとして描かれる童話なんかの影響も大きいのかもしれない。


その点、最近のディズニープリンセスって結婚しないよね。メリダとかエルサとか。ティアナは結婚するけど、ティアナにとってのハッピーエンドは子供の頃からの夢(自分の店をもつこと)を叶えることとして描かれている。ラプンツェルも結婚するけど、彼女の結婚は本編中ではなく続編の短編映画で描かれる。本編のハッピーエンドは両親との再会だ。
女性の幸せは、必ずしも“愛する人との結婚”ではない…“結婚”以外のいろいろな幸せが描かれること、僕はそれを素晴らしいことだと思っている。



最近、「エルサに女性の恋人を!」っていう運動がインターネットで盛り上がっているらしい。もちろん反対意見も込みでの盛り上がりだ。

エルサは、雪や氷を操れる特殊能力を持っている。『Mr.インクレディブル』の子供たちのように超能力者の家庭に生まれたというわけではなく、たまたま生まれつきその力を持っていた…そしてその力は自分の意思で押さえ込むことが難しく、“隠さなければならないもの”と親に教え込まれ、エルサを苦しめる元凶となる…という、かなりセクシャルマイノリティのおかれやすい状況を意識したと思われる設定となっている。実際『アナと雪の女王』が公開当時、セクシャルマイノリティのコミュニティの支持を得たことはよく知られている。

そういうわけだから、エルサを初の同性のパートナーを得たディズニープリンセスにしたいという人の気持ちもまあわかる。でも、「エルサがパートナーを得てしまったら、たとえ相手が同性だとしても、『アナと雪の女王』本編では否定したロマンティックラブイデオロギーを復活させてしまうことになる!」という人の気持ちはもっとわかる。やっぱ怖いよね、ロマンティックラブイデオロギー


僕は、エルサが幸せになるなら何でも良いと思う。『アナと雪の女王』の物語のなかでは、エルサはマイナスからのスタートで最終的にプラマイゼロになるくらいのところまでしかいってないと思うから、幸せになるならどこまでも幸せになってほしい(僕は短編映画『エルサのサプライズ』未見なので、そのなかでどのくらい幸せになっているかは知らない)。
でも、エルサってロマンティックラブイデオロギーってタイプじゃない気がするし、エルサはエルサで、彼女のやり方で幸せになれば良いし、プリンセスが同性のパートナーを得る作品はまた別の機会でもいいんじゃないかな。『マレフィセント』なんかはある意味で、プリンセスが同性のパートナーを得る話だったと言えなくもない気がする。


“結婚”だけが幸せじゃないよっていうのはもう充分だから、パートナーシップがうまくいかない場合とかについてももっと言及してほしいかなっていうのもある。『魔法にかけられて』の弁護士はバツイチ子持ちだし、『ちいさなプリンセス ソフィア』のソフィアの母も子連れで結婚するから、そろそろバツイチ子持ち主人公とか来てもいい気がする。それで同性婚とかね。同性婚はエルサに無理矢理させなくても、近いうちに描いてくれるんじゃないかなって思う。最近のディズニーなら。

最近のディズニーは現実と向き合ってくれるし、女の子が強いから好き。現実と向き合いながらも、それでも、愛とか夢とかのパワーはすごいよ!信じて頑張ろう!って描き方をしてくれるから好き。


Facebookに結婚しました報告してくる人たちも、これから困難なことも少なくないと思うけれど愛とか夢とかのパワーを信じて頑張っていってほしい。陰ながら応援してます。

スタバのタンブラーと僕

最近、毎日のようにスタバに行く。

スタバに行くときは、いつもタンブラーと一緒だ。
僕のタンブラーは、去年の秋ごろに仕事の出先で買ったものである。美女がコーヒーカップを掲げているイラストが大きく描かれている。彼女に一目惚れして買ったのである。


ある日の夕方、一仕事終えて、帰社するために駅に行ったら駅ビルに入ってるパン屋か何かのテナントから良い匂いがしたのがきっかけだった。あ、何かあまいものほしいな、と思って、今日はもう仕事ないからと自分に言い訳しながら駅ビルに入っていったらスタバにたどり着き、僕は彼女に一目惚れしたのだった。

子供の頃から“スタバのタンブラー”にはちょっとした憧れがあった。いつか気に入ったデザインのが出たら買ってやろうとずっと思っていた。
今が、タンブラーを買うそのときなのだと僕は瞬時に悟った。


見惚れていると、おしゃべりな店員さんが「アニバーサリーの記念アイテムなんですよー」などと話しかけてきた。
「かっこいいですね」
「スタバのマークにもなっているセイレーンなんです。セイレーンは、歌を歌って船を沈めちゃう悪女ちゃんなんですよー」
“悪女ちゃんなんですよー”の一言で彼女の魅力はさらに増して見えた。僕はこの店員さんからタンブラーを買うことに決めた。
「これ買います」
「ありがとうございます!タンブラーを買うとドリンク券がついてくるんですが、すぐ使いますか?今だと新商品をカスタマイズで豆乳にするのが私のオススメです」
「じゃあそれでおねがいします」

よどみのない買い物だった。



売る人の“売りたい”と買う人の“買いたい”がうまく合わさったような、そういう買い物ってすごくきもちいいよね。服屋で「えー!お客様細いからよくお似合いですー!ほそーい!スタイル良ーい!」なんて営業トークにのせられて服買っちゃうのとかも好き。まあ、単に僕が女の子好きだからかもしれないけど。男の店員だと全然心に響いてこないし。


話を戻そう。
その日から、彼女はスタバに行くときの、僕の素晴らしいパートナーになった。スタバだけでなくタリーズにも連れていく。スタバはタンブラー割引が20円だけど、タリーズは30円引いてくれるのだ。
彼女と、ほほえみあいながら、一緒にコーヒーを飲む。

スタバの飲み物って、まだ若い僕の金銭感覚からするとかなり高い。だから、スタバに行くときってなんか特別だ。贅沢をしている感じが味わえる。その感じを、美女と共有できるなんて最高だ。


毎日のようにスタバに行くので、彼女はいつも僕のビジネスバッグに入っている。コーヒーを飲むときは一緒にたのしみ、デスクワークのときはデスクの上で僕の仕事を見守っていてくれる。最高だ。彼女とは次元も種族も違うけど、僕の素敵なパートナーだ。

スタバのことをこんなに好きになったのは彼女のせいだ。最近ようやくコーヒーをブラックで飲めるようになったのも、きっと彼女のせいだ。毎日のようにスタバに行くようになってしまったのは、日々のストレスの解消のために贅沢感を味わうためだが、コーヒーを飲むだけでこんなにうれしくなれるのもきっと彼女のせいだ。


これからもよろしくね、悪女ちゃん。

雑草と僕

今週のお題「植物大好き」


親譲りのオタクで、子供の頃から調べものばかりしている。


小学生の頃、雑草にはまった時期があった。母に買ってもらった雑草図鑑を手に、そこらへんに生えてる草の名を調べまくっていた記憶がある。

我が母は植物に詳しく、ガーデニングを趣味としていた時代もあり、草木の名前や性質をよく知っていた。
幼い僕が「あの、花が咲いてる草は何?」などと聞くと「○○だよ」とすぐ教えてくれた。母はべつに専門家でも何でもなく、ただの植物好きな一般人だから何でも知っているというわけでもなかったが、名がわからなくても「葉っぱの形からして○○の仲間っぽいね」くらいは絞り込める知識の持ち主だった。それで僕も「これはバラ科だな」とか「豆の仲間だな」とか、なんとなくわかるようになった。母は、図鑑を買ったあとにも、僕の調べものに付き合ってくれた。


でも、雑草を調べまくった時期があったことなんて、今週のお題を見るまでほとんど忘れていた。
僕には、鉱石にはまってデアゴスティーニのお世話になった時期もあったし、お医者に処方された薬が何なのか気になって『医者からもらった薬がわかる本』を買ったこともあったし、ビーチコウミング(砂浜に落ちているいろんなものを広い集めることのカッコいい言い方)にはまって自分が拾ったものが何の生き物の残骸なのか図書館の図鑑とにらめっこして調べまくった時期もあった。
しかし、考えてみると、雑草こそが僕の“気になったら調べなければ気がすまない”性質の原点だったように思う。


あれから十数年たって、気が付くと僕には雑草が見えなくなっていた。身長が高くなったから、だけではない。雑草は、意識して見ようと思わないと、背景にまぎれて存在を認識できなくなってしまうのである。

子供の頃は、世界に存在するものなにもかもが目新しかったが、四半世紀も生きているとほとんどすべてが見慣れた光景になってしまう。きっと、僕自身も誰かの視界のなかで、背景にまぎれている。



人は、自分の興味のあることにしか目がいかないんだ。


あらためて、意識してそこらに生えている草を見るようにすると、なんで今まで気に止めなかったのか不思議なくらい、いろんな草がそこらじゅうに生えている。ヒメオドリコソウが咲いてたり、コバンソウが出てきたりしている。どちらも子供の頃、好きだった草だ。

ヒメオドリコソウの花の蜜を吸ったなあとか、オオバコで引っ張り相撲したなあとか、道端の草には子供の頃の思い出がつまってる。シロツメクサを編んだこととか、ギシギシの実をごはんに見立てておままごとしたこととか、なんで今まで忘れてたんだろう。子供の頃はあんなに身近な存在で、今でも草は同じように生えてるのに。


子供の頃のことって、これからどんどん忘れていっちゃうんだろうか。そうだとしたら少しさみしいな。



子供は「勉強しなさい!」とか「宿題やりなさい!」とか言われるとやる気なくすっていう話が昔からあって、いろんなご家庭でそれが起きているらしくて、僕はそれがずっと不思議だった。大人は、みんな過去に子供だった時代があるはずなのに、なんで子供の感じ方がわからないのか、と。単に「○○しなさい!」って言うよりマシなやり方が思い付かないだけって可能性もあるけど、ひょっとしたら本当に忘れちゃうのかもしれない。子供の、ものの見方・感じ方・考え方を。


僕は、子供の頃、植物大好きだった。
忘れないうちに、ここに書き残しておく。

新卒一年目なのに半年の休職をした件

みなさんお気付きだろうか、僕が半年間ニート同然の生活をしていて、母から“ユキ松さん”などという不名誉なあだ名で呼ばれていたことに。気付かなかったのなら幸いだ。出来るだけ気付かれないようにしていたから。

ここで、前々回の記事のネタバラシといこう。

世間の祝祭日があまり関係ない世界で生きているので、お休みの日はあったけどゴールデンウィークという感じのものは僕にはなかった。強いて言えば、電車に揺られながら中吊り広告を見て、ああ…ゴールデンウィークだからいろんなイベントがあるんだなあ…ヒーローショーいいなあ…、と思っているのが僕のゴールデンウィークだった。

腹筋をバキバキに割りたい件 - 生きてると疲れる

ゴールデンウィークも働きづめで忙しいサラリーマンみたいに書いてあるが、実は違う。「世間の祝祭日があまり関係ない世界」というのは、休職中の身のことを指して言っているのである。「お休みの日はあった」とあるが、お休みの日しかなかったのである。電車に乗るのは職場ではなくお医者に行くためである。というわけで、

そのほかは本当にただのウィークデーであったから、僕は、やらなきゃいけないことがあるときはそれをやり、特にないときはウルトラマンを見たりアクセサリーを作ったりブログを書いたりしてすごした。

腹筋をバキバキに割りたい件 - 生きてると疲れる

「やらなきゃいけないこと」というのも、もちろん仕事ではなく家事のことである。

 

 

休職中であることは、両親と、話の流れで打ち明けざるを得なかった数人の友人にしか知らせていない。祖母や大学のサークルの後輩たちには絶対に知らせないように骨を折った。祖母に知られたくなかったのは、心配性の祖母に心配をかけないため。後輩たちに知らせたくなかったのは、新卒で入ったばかりなのに休職する僕の姿を見て、これから出て行こうとする社会に過剰な不安を抱かせないためである。

 

 

 人に心配をかけてはいけないなんて、大学生までの僕だったら絶対にない発想だ。大学生の僕はものすごく自己中で、人に心配をかけて世話を焼かせるのが大好きだった。

それが、たとえ半年でも社会に出れば変わらざるを得なかったんだよね。

はじめは「気をつかえ」なんて言われても、気のつかいかたなんてわからなくて、僕は光戦隊マスクマンじゃないぞ、くらいに思っていたのだが、言われまくっているうちに少しずつだがつかえるようになってきた。そういうものである。

 

 

 僕は、早起きと人付き合いが苦手だしメンタルが弱い。それでも、なんとかがんばって就職してサラリーマンになった。そこまではよかった。しかし入社3ヶ月で抑うつの症状が出始め、6ヶ月で通勤すらままならなくなり、ついにドクターストップがかかって休職に入った。

 

仕事はおもしろいし、やりがいもあると感じていた。が、問題は人間関係である。僕はこれまでオタクとしか親しくしてこなかったから、オタクじゃない人とのコミュニケーションの仕方が全然わからなかった。それに、入社当初に「会社では一人称は“わたし”、セクシャリティはクローゼットでいよう」と決意したのが今思えば大きな負担となるものだった。ひとつ秘密を作ると、あとはどんどん嘘をつかなければいけなくなる。しまいには全部嘘になる。僕は自分を見失ってしまった。

 

 

約半年の休暇は、今までで一番つらい休暇だった。抑うつで集中力がないので、本も読めないし映画も落ち着いて見られない。気力がないのであまり出かけられない。行きたかった春画展も行けずじまいだった。

症状は良くなったり悪くなったりを繰り返した。良いときは全然元気で、これならすぐに復帰できるかと思うくらいだったが、またすぐ悪くなるのである。はじめは1ヶ月休めば治ると考えていたが、2ヶ月3ヶ月と延び、気が付けば休職できる期間ギリギリの6ヶ月にまで及んでしまった。

 

半年も休むと、さすがに症状も落ち着きを見せてきていた。僕は、風邪を引いた母の世話ができたことで自信をつけていた。毎日、朝起きて夜眠れます、ごはんも食べられます、とお医者に話すと、復職の診断書が書いてもらえた。

 

 

来週、僕は復職することになっている。 

 

 

 

正直不安はある。精神病には全快という概念がないらしく、僕はまだ少し薬に頼った生活をしている。また悪化するかもという恐れもある。でも、今の僕なら働けるとお医者のお墨付きだし、休職中も僕のことを心配してくれた会社に恩返ししたいという気持ちもある。また仕事を通じていろんなものやいろんな人に出会えるのがたのしみでもある。 

何より、半年の間自分を見つめ直して、「おとうさんになりたい」「人の役に立ちたい」という夢を取り戻せたから、よかった。 

 

僕は、仕事があんまりできないくせに真面目すぎるという鬱になりやすい性格なんだけど、お医者が「全力を出そうとしないで、6割くらいの力でやるつもりで取り組むといいですよ」とアドバイスしてくれた。ゆるゆる、少しずつ、がんばりたいと思う。

ゆっきたーんは魔法少女である

魔法少女なの?」
「そうだよ」
「魔法が使えるの?」
「使えるときと使えないときがある」
「そっかあ」

魔法は使うものじゃない。体質みたいなもの。使おうとして使えるものじゃない。
スポーツ選手が、いつでもベストの記録を出せるわけじゃないのと同じ。


「いつ魔法少女になったの?」
「母が魔女だから生まれつきです」
「なるほど」

桃から生まれた桃太郎。
魔法から生まれた魔法少女
そういうことである。



母は魔女である。実年齢より一回り以上若く見える。どんなテーマでも人を惹き付ける話をすることができる。緑の手を持っている。母が近くにいると、それだけで植物も動物も元気になる。 煮物が上手で煮くずれ知らず。 そして、大抵のことは母の願った通りに進んでいく。努力ではどうにもならないことも、運のよさでなんとかしてしまう。

そんな母が、桜の季節に女の子が欲しいと思ったから、僕は桜の季節に女の子として生まれてきた。




リボンの騎士』にヘケートという女の子が出てくる。魔女の娘である。彼女はフランツ王子に力を貸し、フランツは彼女の母である魔女を倒す。
魔女が倒れたその途端、苦しみ始めたヘケートは、フランツに大変な告白をする。
「かあさんが死んだら、あたしもおしまい……あたしはね、かあさんの魔法で生まれたのよ。だから、とてももろいのよ…… 」

その台詞は、僕に衝撃を与えた。



スーパー戦隊とかプリキュアとかでは、敵が倒されると敵の力によって起きた現象(破壊活動など)はすべて元通りになる演出がよくある(元通りにならないシリーズもあるが)。しかし、“元通りになる”ことが悲劇として描かれるのは、後にも先にもヘケートの死のシーンしか見たことがなかった。


僕もそうなんじゃないか?
僕も母の魔法で産み出されたから、母が死んだら消えてしまうのではないか?

そんな気が、ずっとしている。


そんなわけないのだ。母はただの人間だし、僕だってただの人間だ。ただ、母が美人で、僕がマザコンなだけだ。
たとえば母が死んでしまっても、僕は次の日もその次の日も、生きていかなきゃいけないんだ。

母に依存するのを、いっぺんにやめるのはむずかしいとしても、少しずつ、段階的に進めていかないといけない、と思う。そうしなきゃ、本当に、母が死んだら僕もおしまいになってしまう。


僕の人生は、良いときも悪いときもあったけど、だいたいは僕にとって一番良い方向に進んでいると感じている。嫌だったことも怒ったことも、つらかったり悲しかったりしたことも、僕の人生に必要なものであったし、結果的にはすべてが良い方向への道しるべになっていると思う。
それが、偶然なのか必然なのか、母の魔法の力なのか、僕自身の魔法なのか、単にポジティブシンキングなだけなのか、それはわからない。

わからない、けど。

これまでずっと、人生は僕にとって良い方向に進んできたし、絶対これからもそうなんだって信じているんだ。
きっと僕にも母から受け継いだ魔法の力があって、いつかは母を越える魔女になれるって信じたいんだ。


ゆっきたーんは魔法少女である。