生きてると疲れる

疲れたら休む

雑草と僕

今週のお題「植物大好き」


親譲りのオタクで、子供の頃から調べものばかりしている。


小学生の頃、雑草にはまった時期があった。母に買ってもらった雑草図鑑を手に、そこらへんに生えてる草の名を調べまくっていた記憶がある。

我が母は植物に詳しく、ガーデニングを趣味としていた時代もあり、草木の名前や性質をよく知っていた。
幼い僕が「あの、花が咲いてる草は何?」などと聞くと「○○だよ」とすぐ教えてくれた。母はべつに専門家でも何でもなく、ただの植物好きな一般人だから何でも知っているというわけでもなかったが、名がわからなくても「葉っぱの形からして○○の仲間っぽいね」くらいは絞り込める知識の持ち主だった。それで僕も「これはバラ科だな」とか「豆の仲間だな」とか、なんとなくわかるようになった。母は、図鑑を買ったあとにも、僕の調べものに付き合ってくれた。


でも、雑草を調べまくった時期があったことなんて、今週のお題を見るまでほとんど忘れていた。
僕には、鉱石にはまってデアゴスティーニのお世話になった時期もあったし、お医者に処方された薬が何なのか気になって『医者からもらった薬がわかる本』を買ったこともあったし、ビーチコウミング(砂浜に落ちているいろんなものを広い集めることのカッコいい言い方)にはまって自分が拾ったものが何の生き物の残骸なのか図書館の図鑑とにらめっこして調べまくった時期もあった。
しかし、考えてみると、雑草こそが僕の“気になったら調べなければ気がすまない”性質の原点だったように思う。


あれから十数年たって、気が付くと僕には雑草が見えなくなっていた。身長が高くなったから、だけではない。雑草は、意識して見ようと思わないと、背景にまぎれて存在を認識できなくなってしまうのである。

子供の頃は、世界に存在するものなにもかもが目新しかったが、四半世紀も生きているとほとんどすべてが見慣れた光景になってしまう。きっと、僕自身も誰かの視界のなかで、背景にまぎれている。



人は、自分の興味のあることにしか目がいかないんだ。


あらためて、意識してそこらに生えている草を見るようにすると、なんで今まで気に止めなかったのか不思議なくらい、いろんな草がそこらじゅうに生えている。ヒメオドリコソウが咲いてたり、コバンソウが出てきたりしている。どちらも子供の頃、好きだった草だ。

ヒメオドリコソウの花の蜜を吸ったなあとか、オオバコで引っ張り相撲したなあとか、道端の草には子供の頃の思い出がつまってる。シロツメクサを編んだこととか、ギシギシの実をごはんに見立てておままごとしたこととか、なんで今まで忘れてたんだろう。子供の頃はあんなに身近な存在で、今でも草は同じように生えてるのに。


子供の頃のことって、これからどんどん忘れていっちゃうんだろうか。そうだとしたら少しさみしいな。



子供は「勉強しなさい!」とか「宿題やりなさい!」とか言われるとやる気なくすっていう話が昔からあって、いろんなご家庭でそれが起きているらしくて、僕はそれがずっと不思議だった。大人は、みんな過去に子供だった時代があるはずなのに、なんで子供の感じ方がわからないのか、と。単に「○○しなさい!」って言うよりマシなやり方が思い付かないだけって可能性もあるけど、ひょっとしたら本当に忘れちゃうのかもしれない。子供の、ものの見方・感じ方・考え方を。


僕は、子供の頃、植物大好きだった。
忘れないうちに、ここに書き残しておく。