生きてると疲れる

疲れたら休む

新卒一年目なのに半年の休職をした件

みなさんお気付きだろうか、僕が半年間ニート同然の生活をしていて、母から“ユキ松さん”などという不名誉なあだ名で呼ばれていたことに。気付かなかったのなら幸いだ。出来るだけ気付かれないようにしていたから。

ここで、前々回の記事のネタバラシといこう。

世間の祝祭日があまり関係ない世界で生きているので、お休みの日はあったけどゴールデンウィークという感じのものは僕にはなかった。強いて言えば、電車に揺られながら中吊り広告を見て、ああ…ゴールデンウィークだからいろんなイベントがあるんだなあ…ヒーローショーいいなあ…、と思っているのが僕のゴールデンウィークだった。

腹筋をバキバキに割りたい件 - 生きてると疲れる

ゴールデンウィークも働きづめで忙しいサラリーマンみたいに書いてあるが、実は違う。「世間の祝祭日があまり関係ない世界」というのは、休職中の身のことを指して言っているのである。「お休みの日はあった」とあるが、お休みの日しかなかったのである。電車に乗るのは職場ではなくお医者に行くためである。というわけで、

そのほかは本当にただのウィークデーであったから、僕は、やらなきゃいけないことがあるときはそれをやり、特にないときはウルトラマンを見たりアクセサリーを作ったりブログを書いたりしてすごした。

腹筋をバキバキに割りたい件 - 生きてると疲れる

「やらなきゃいけないこと」というのも、もちろん仕事ではなく家事のことである。

 

 

休職中であることは、両親と、話の流れで打ち明けざるを得なかった数人の友人にしか知らせていない。祖母や大学のサークルの後輩たちには絶対に知らせないように骨を折った。祖母に知られたくなかったのは、心配性の祖母に心配をかけないため。後輩たちに知らせたくなかったのは、新卒で入ったばかりなのに休職する僕の姿を見て、これから出て行こうとする社会に過剰な不安を抱かせないためである。

 

 

 人に心配をかけてはいけないなんて、大学生までの僕だったら絶対にない発想だ。大学生の僕はものすごく自己中で、人に心配をかけて世話を焼かせるのが大好きだった。

それが、たとえ半年でも社会に出れば変わらざるを得なかったんだよね。

はじめは「気をつかえ」なんて言われても、気のつかいかたなんてわからなくて、僕は光戦隊マスクマンじゃないぞ、くらいに思っていたのだが、言われまくっているうちに少しずつだがつかえるようになってきた。そういうものである。

 

 

 僕は、早起きと人付き合いが苦手だしメンタルが弱い。それでも、なんとかがんばって就職してサラリーマンになった。そこまではよかった。しかし入社3ヶ月で抑うつの症状が出始め、6ヶ月で通勤すらままならなくなり、ついにドクターストップがかかって休職に入った。

 

仕事はおもしろいし、やりがいもあると感じていた。が、問題は人間関係である。僕はこれまでオタクとしか親しくしてこなかったから、オタクじゃない人とのコミュニケーションの仕方が全然わからなかった。それに、入社当初に「会社では一人称は“わたし”、セクシャリティはクローゼットでいよう」と決意したのが今思えば大きな負担となるものだった。ひとつ秘密を作ると、あとはどんどん嘘をつかなければいけなくなる。しまいには全部嘘になる。僕は自分を見失ってしまった。

 

 

約半年の休暇は、今までで一番つらい休暇だった。抑うつで集中力がないので、本も読めないし映画も落ち着いて見られない。気力がないのであまり出かけられない。行きたかった春画展も行けずじまいだった。

症状は良くなったり悪くなったりを繰り返した。良いときは全然元気で、これならすぐに復帰できるかと思うくらいだったが、またすぐ悪くなるのである。はじめは1ヶ月休めば治ると考えていたが、2ヶ月3ヶ月と延び、気が付けば休職できる期間ギリギリの6ヶ月にまで及んでしまった。

 

半年も休むと、さすがに症状も落ち着きを見せてきていた。僕は、風邪を引いた母の世話ができたことで自信をつけていた。毎日、朝起きて夜眠れます、ごはんも食べられます、とお医者に話すと、復職の診断書が書いてもらえた。

 

 

来週、僕は復職することになっている。 

 

 

 

正直不安はある。精神病には全快という概念がないらしく、僕はまだ少し薬に頼った生活をしている。また悪化するかもという恐れもある。でも、今の僕なら働けるとお医者のお墨付きだし、休職中も僕のことを心配してくれた会社に恩返ししたいという気持ちもある。また仕事を通じていろんなものやいろんな人に出会えるのがたのしみでもある。 

何より、半年の間自分を見つめ直して、「おとうさんになりたい」「人の役に立ちたい」という夢を取り戻せたから、よかった。 

 

僕は、仕事があんまりできないくせに真面目すぎるという鬱になりやすい性格なんだけど、お医者が「全力を出そうとしないで、6割くらいの力でやるつもりで取り組むといいですよ」とアドバイスしてくれた。ゆるゆる、少しずつ、がんばりたいと思う。

ゆっきたーんは魔法少女である

魔法少女なの?」
「そうだよ」
「魔法が使えるの?」
「使えるときと使えないときがある」
「そっかあ」

魔法は使うものじゃない。体質みたいなもの。使おうとして使えるものじゃない。
スポーツ選手が、いつでもベストの記録を出せるわけじゃないのと同じ。


「いつ魔法少女になったの?」
「母が魔女だから生まれつきです」
「なるほど」

桃から生まれた桃太郎。
魔法から生まれた魔法少女
そういうことである。



母は魔女である。実年齢より一回り以上若く見える。どんなテーマでも人を惹き付ける話をすることができる。緑の手を持っている。母が近くにいると、それだけで植物も動物も元気になる。 煮物が上手で煮くずれ知らず。 そして、大抵のことは母の願った通りに進んでいく。努力ではどうにもならないことも、運のよさでなんとかしてしまう。

そんな母が、桜の季節に女の子が欲しいと思ったから、僕は桜の季節に女の子として生まれてきた。




リボンの騎士』にヘケートという女の子が出てくる。魔女の娘である。彼女はフランツ王子に力を貸し、フランツは彼女の母である魔女を倒す。
魔女が倒れたその途端、苦しみ始めたヘケートは、フランツに大変な告白をする。
「かあさんが死んだら、あたしもおしまい……あたしはね、かあさんの魔法で生まれたのよ。だから、とてももろいのよ…… 」

その台詞は、僕に衝撃を与えた。



スーパー戦隊とかプリキュアとかでは、敵が倒されると敵の力によって起きた現象(破壊活動など)はすべて元通りになる演出がよくある(元通りにならないシリーズもあるが)。しかし、“元通りになる”ことが悲劇として描かれるのは、後にも先にもヘケートの死のシーンしか見たことがなかった。


僕もそうなんじゃないか?
僕も母の魔法で産み出されたから、母が死んだら消えてしまうのではないか?

そんな気が、ずっとしている。


そんなわけないのだ。母はただの人間だし、僕だってただの人間だ。ただ、母が美人で、僕がマザコンなだけだ。
たとえば母が死んでしまっても、僕は次の日もその次の日も、生きていかなきゃいけないんだ。

母に依存するのを、いっぺんにやめるのはむずかしいとしても、少しずつ、段階的に進めていかないといけない、と思う。そうしなきゃ、本当に、母が死んだら僕もおしまいになってしまう。


僕の人生は、良いときも悪いときもあったけど、だいたいは僕にとって一番良い方向に進んでいると感じている。嫌だったことも怒ったことも、つらかったり悲しかったりしたことも、僕の人生に必要なものであったし、結果的にはすべてが良い方向への道しるべになっていると思う。
それが、偶然なのか必然なのか、母の魔法の力なのか、僕自身の魔法なのか、単にポジティブシンキングなだけなのか、それはわからない。

わからない、けど。

これまでずっと、人生は僕にとって良い方向に進んできたし、絶対これからもそうなんだって信じているんだ。
きっと僕にも母から受け継いだ魔法の力があって、いつかは母を越える魔女になれるって信じたいんだ。


ゆっきたーんは魔法少女である。

腹筋をバキバキに割りたい件

今週のお題ゴールデンウィーク2016」


世間の祝祭日があまり関係ない世界で生きているので、お休みの日はあったけどゴールデンウィークという感じのものは僕にはなかった。強いて言えば、電車に揺られながら中吊り広告を見て、ああ…ゴールデンウィークだからいろんなイベントがあるんだなあ…ヒーローショーいいなあ…、と思っているのが僕のゴールデンウィークだった。

ピクサー展に行ったのと、TRPに参加したのがゴールデンウィークっぽいといえばぽいかもしれない。
そのくらいだった。
(ピクサー展は奇しくも特撮博物館が開催されたのと同じ東京都現代美術館で開かれている。特撮博物館が昔の凄技を見せて「特撮の歴史すげえ!!!!」って感じだったのに対し、こちらは最新技術に至るまでの経緯を見せて「30年でこんなに進歩するのかアニメは!!!!」って感じだった。アニメすごい。アニメとか、ゆーて絵が動くだけっしょwwくらいに思って行ったら全然すごかった。)


そのほかは本当にただのウィークデーであったから、僕は、やらなきゃいけないことがあるときはそれをやり、特にないときはウルトラマンを見たりアクセサリーを作ったりブログを書いたりしてすごした。それと、忘れちゃいけないのは腹筋だ。腹筋を鍛えた。


母が先日、前々からずっと買おうかどうしようか悩んでいた腹筋座椅子をとうとう買ったのである。それを機に我が家ではみんな毎日腹筋運動をするようになった。みんなというのは僕と母の二人である。
母がディノスの割引券を駆使して購入した腹筋座椅子はすごく座り心地がよくて、腹筋運動のために足をおさえてくれるバーもいい感じで、よい買い物であった。運動したいときにも休みたいときにも使える。すごい。

腹筋座椅子の取説には、10回を1セットとして1日3回やるのがオススメだと書いてあったのだが、母は謎の意気込みを見せ、30回を3セットやっている。母は何になろうとしているんだろう。ちなみに僕は1日に15~20回を2セットやっている。


僕は毎年、夏が近づいてくると腹筋を割る計画を立てるが、毎回三日坊主で終わる。でも、今年は座椅子のおかげでけっこう続けられているのでイケるかもしれない気がしている。気のせいかもしれないけど。

腹筋をバリバリに割って、一緒にスパリゾートハワイアンズに行ってビキニ着ようね、などと母と話している。


腹筋が割れてる女性というのはいいよね。僕がはじめて腹筋が割れてる女性に魅力を感じたのは、思春期に父の部屋から無断で借りてきた成人向け漫画を読んだときだったと記憶している。思春期というと女の子は父親を嫌ったりするのが定番だが、僕は全然嫌いじゃなかったし、ときどき勝手に父の部屋に入り込んでは本を漁り、父と僕の性癖が近いことに感謝する日々であった。
腹筋が割れてる人というのはフィジカルもメンタルもめっちゃ強そうだ。強い女性は元々好きだったから腹筋が割れてる女性に魅力を感じるのは当然のことだった。そういえばローヤルちゃんの初期デザインにも腹筋のパーツがついていたっけ。ない方がバランスいいかなと思ってやめたんだけど。

ようするに、強くなりたいんだよね、僕は。腹筋割れてるのが強さの象徴なんだ。
鍛えて、鬼になって、人助けしたいんだよね。
ヒビキさんが鍛えているシーンなんかを思い出しながら、僕は毎日腹筋に励む。


2週間、腹筋を鍛えてきて、少し割れてきた気がする。「どう?割れてきたっぽくない?」と母に見せびらかすが、「よくわからない」との返答。ライザップだって3ヶ月かかるのだから、もう数週間続けないと他人にわかってもらえるほどの成果は出ないのかもしれない。

がんばりたい。

TRPに行った

昨日と一昨日はTRPに行った。みなさんご存じのこととは思うが、TRPとは東京レインボープライドという性の多様性をお祝いするお祭りの略称である。
毎年、4月の最終日曜くらいに行われていたものだが、今年は5月の頭に、それも2日間に渡って開催された。


この“4月の最終日曜”というのがネックだった。大学生のときはサークルの新歓があり、“4月の最終土曜は徹カラ”というのがお決まりだったので、翌日の朝からイベントに行くのはかなり厳しかったのだ。一度だけ、カラオケの後、昼まで寝て昼過ぎから無理矢理参加したことがあるけどかなり死にそうな感じで、あんまり楽しめなかった記憶がある。
社会人になれば参加できるかと思いきや、去年は普通に仕事で参加できなかった。

今年はたまたま行けたが、来年以降はうまく仕事との調整をしないと行けないかもしれない。ひょっとしたら今年が最後の参加かもしれない。だから、絶対にパレードを歩きたい!

そう思っていたのに、普通に寝坊してダメだった。
残念。人生そんなものである。





数年前に参加したときより、規模が拡大しているのは明らかだった。単に日数が増えたというわけではなく、ブースがものすごく多くなっていた。ブースが増えるというのは、新規参入が多いということである。実際、ブースの内容を見るとセクマイ当事者ではないセクマイサポーターが増えているように感じられた。セクマイ市場を狙っている商売人たちの働きもアツかった。

お祭り感は増していて、たのしめたが、やっぱりリア充の同性カップル向けのサービスが多いなあと感じた。やはり今年のトレンドは“同性婚”で、あちこちで模擬結婚式なんかが行われていた。ぼっち参加は地味につらかったので2日目はピカ氏を連れていって、電通のブースやGoogleのブースでピカ氏と一緒に写真を撮った。たのしかった。

ガワもけっこういたので、ガワと写真撮れたのもよかった。

twitterのフォロワーにたくさん会えたのもよかった。お久しぶりですの人も、はじめましての人も、今フォローしましたの人もいた。僕の髪型が変わったので「誰かと思った!!!!けどニーソ見たらわかった!!!!」とよく言われた。みんな意外と人の顔を見ているんだなあと思った。

アボカドタコライスとマンゴーかき氷がおいしかった。


すこし気になったのは、当事者団体でない団体の人などが、歩く人を呼び止めるときに「おねえさん!」などと声をかけたりするのとか、「女性限定調査」の看板を掲げているブースがあったりとか、セクマイイベントでは性別の取り扱いはセンシティブだから気を付けた方がいいっていうのをわかってないんだろうなあという言動が少なくなかったこと。
まあ、日本は、これから理解を深めていく段階なんだろうなあ。
せっかくゴールデンウィークで天気もいいのに、仕事でわけのわからないお祭りに駆り出される企業ブースの人たちもつらいだろうしなあ。

男の人(見た目が男だっただけでなく、自分のことを指して「男」と言っていたので間違いなく男)がナンパしてきたのも不快だった。なんでナンパするのにTRPなんか来るんだ。レズビアンカップルに混ざりたい願望の人とかだったのかな。なんにしても最悪だった。


そんな感じ。

2日目に寝坊してしまったのは、1日目に友達に付き合って歩きまくって疲れたせいだということは明らかなので、反省して今後に活かしていきたい。

TRPの電通のブースでもらった『ALLY HANDBOOK』が残念な件

TRPで電通ダイバーシティラボのブースが発行していた『A-License』。アライであることの証明書である。
ストレートアライの人向けの企画なのかなと思っていたんだけど、セクマイ当事者の知人友人にも首から下げている人が少なくなかったから、じゃあ僕ももらおうと思って列にならんだ。

列にならんで、順番が来たら「LGBTコミュニティを理解し、受け入れ、支援することを誓いますか?」「誓います!」というような儀式をやって、それが済んだら写真撮影。写真はすぐにA-Licenseにプリントされて、それにサインをしたらケースにいれて首から下げてもらえておしまい。
儀式からA-License完成までは非常にスムーズで、写真撮るときの盛り上げかた(ピカ氏と一緒に行ったから、「もっとギュッと抱きしめて!」などと言われた)もすごく上手だったから、さすが電通、大企業だなあって感心させられた。A-Licenseのデザインも素敵だし、写真もよく撮れていたしよかった。


でも、やっぱり“アライにライセンスを発行する”というコンセプトとか、そのやり方とか、A-License に付属するALLY HANDBOOKの内容とかには、これはちょっとどうなんだろう、と思うところが少なくなかったので以下に書き出していく。


前提として、僕がセクシャルマイノリティについてインターネットで情報収集するようになったのが10年ほど前から、時々コミュニティに顔を出すようになったのが5年ほど前から、ということを念頭に置いて読んでいただけたらよいかと思う。


①「アライ」の定義

「アライ」は「LGBTを理解し、支援する人々」だとALLY HANDBOOKには書いてある。アライがストレートであるかどうかについては明確な言及がない。

セクシャルマイノリティのコミュニティで「アライ」といえば「ストレートアライ」を指す言葉として(わたしの知る限りでは)ずっと使われてきた。客引きのおにいさんに「アライの証明書を発行していきませんか?」と話しかけられて「えっ…いや、僕当事者なんで…」と、戸惑いながら歩き去る方も見かけた。この反応も、アライとはストレートアライであり当事者はアライにはなりえないと思ってのものだろう。

電通ダイバーシティラボがどういった経緯でこの企画をTRPで行うことになったのかはわからないが、もしかしたら、電通は“セクシャルマイノリティのイベントではマイノリティがマジョリティになる”という当たり前のことに気が付いていなかったのかもしれない…?

あるいは、電通セクシャルマイノリティ当事者でもアライを名乗れるという考えなのかもしれないが、“アライ”といえば“ストレートアライ”を指すというのはすでにセクシャルマイノリティコミュニティでは当たり前になってしまっている。そこに新たな定義をしてもなかなか根付かないのではないかと思う。


②カジュアルに「アライ」を名乗る/認めることの危うさ

A-Licenseは、前述の通り「誓います!」と言うだけで発行してもらえる。その気持ちがあれば誰でもアライ、というのが電通の考え方らしい。

しかし、差別は、サポートする気持ちがあればなくせるというものではない。無意識のうちに差別的な言動をしてしまうことも少なくない。
本当に支援するつもりならば、セクシャルマイノリティの歴史や現状、実際に起こっている問題について知り、考え続ける必要がある。権利を得るため、手放さないためには不断の努力が必要なのである。

その努力をせずにA-Licenseを掲げてアライを名乗るのであれば、新時代の「私には黒人の友達がいる(差別をする人の典型的な言い訳)」になってしまうのではないか。

せめて、LGBTの現状や抱える問題についての講習か何かで学んでから発行されるものならよいのになあ、と思う。


A-Licenseには前述の通り、ALLY HANDBOOKというものが付属している。LGBTの現状についての電通ダイバーシティラボの調査結果や、アライとしての望ましい行動などがまとめられているものである。
A-Licenseを契機に、LGBTのことを学んでもらうためのものなのだろう。順番が逆なような気もするが、カジュアルにやろうとするとこういう形になってしまうのかもしれない。実際にここからセクシャルマイノリティーズの抱える問題に興味を持つ人がいるならば、その意義は認めざるを得ない。

しかしこのハンドブックにも問題が多いと感じた。次項からそれについて書く。


③「レインボー」の意味

レインボーは多様性の象徴である。これに関しては異論はないと思う。

問題は『ALLY HANDBOOK』の「日本のLGBT人口」のページ。日本には13人に1人のLGBT当事者がいることを表す図が載っているのだが、これが実によくない。13の手が描かれているのだが、そのうち12の手が白色、1つの手が虹色に塗られている(LGBT人口は左利きの人口とほぼ同じとはよく言われるが、この図も12の手が右手、1つの手が左手になっている)。わかりやすい図ではあるが、レインボーはLGBT当事者を表すものではない。繰り返すが、多様性の象徴である。“普通の人”の中に“変わり者”がいるわけではなく、みんな違ってみんないいのである。


④人の性の種類

次のページ。「人の性は男と女の2種類だけではありません。」と言い切っているのであるが、示される図は「カラダの性」が男女の2種類、「ココロの性」が男女の2種類、「スキになる性」が異性・同性・両性の3種類。「性は男と女の2種類だけではありません。」というわりに、男女以外の性別(性自認が無性・両性・不定性など)に触れられていないのが気になる。そもそも、ここで言う「性」とはなんなのだろうか。「性別」と「セクシャリティ」を混同しているのではないか。


⑤そもそも日本語がおかしい

「自分がLGBTかもと気づいた時期」のページ。「気づくタイミングに、年齢は関係ありません。40歳を超えてから気づく人も多いんです。「LGBTは生まれながらのもの」というわけではないのですね。」とあるが、「40歳を超えてから気づく」こととセクシャリティが「生まれながらのもの」であることは矛盾しない。
また、セクシャリティが生有的なものであるかどうかには未だに議論があるところなので、“生有的なものではない”と決めつけるのはよくないと思う。


⑥“先進的”な「ライフユニット」とは何か

「ライフユニット」というのは、電通ダイバーシティラボが提唱する“家族”の新しい呼び方であるらしい。個人的には、わるくないと思う。

しかし、「LGBT世帯、事実婚の世帯、里親世帯など」を「先進的な「ライフユニット」」と呼ぶのはいかがなものだろうか。たまたまそれらが最近認識されるようになっただけで、“先進的”などというのはおかしいのではないか。




以上です。

アライの人は増えてほしいけども、「私はアライです!」ってわざわざ言う人は信用ならない感じがする。ストレートアライの人は“アライ”なんかじゃなくて、「自分も将来同性を好きになるかもしれないし」みたいなスタンスでいてほしい。ストレートもゲイもトランスもみんなグラデーションでみんな違ってみんないいよ!

今日、痴漢にあった

今日、痴漢にあった。これまでの人生で2回目の痴漢である。


運悪く夕方のラッシュに巻き込まれた僕は、すし詰め状態の電車のなかで、おしりとふとももの境界線のあたりにあたたかい何かがあたっている感触に気づいた。
そのあたたかさ、固さによって、“それ”が人間の指であることに疑いの余地はなかった。問題はわざと触っているかたまたまあたってしまっただけなのか、だ。

どちらにしても不快なので、僕はできる限り“それ”から離れようと身体をひねった。無駄だった。“それ”の持ち主と思われる人物――白い作業着のようなものを着た定年も近いであろう――“おじさん”が、僕の動きにぴったりくっついて動くのを感じた。わざと触っていることが明らかになると同時に、恐怖が僕を襲った。

ラッシュ時の電車は、駅にとまるたびにたくさんの人を下ろし、たくさんの人を乗せる。僕はその乗客の動きを利用して“おじさん”から離れようともがいた。無駄だった。“おじさん”はぴたりとついてくる。
“おじさん”は良い人を装っていた。電車が駅に着く度に、降り損ないそうな人を見つけては「まだ降りる人います!」と声を張り上げるのだった。僕の尻に手を触れさせながら。そして、降りる人のためにできた空間を、僕にぴたりとついてくるために利用するのだった。

しばらくすると、それまで単におしりを触っていただけだった“おじさん”は、指を動かし始めた。おしりの柔らかさを確かめるように。「痴漢です」って言ったら誰か助けてくれるだろうか。無理だ。なにしろすし詰め状態なのだ。誰も一歩も動けないのだ。逃げられない。怖くてしかたなかった。声なんか出るはずもなかった。

ふと、下を見ると、“おじさん”の片手が僕の胸のほうにのびてきているのを発見した。“おじさん”は片手でおしりを揉みながら、もう一方の手でおっぱいまで触ろうとしていたのだった。あまりのことに僕は息を呑んだ。僕が感づいたことに気が付いたのか、“おじさん”は手を引っ込めた。おしりは触られたままだった。


結局、“おじさん”が電車を降りるまで、僕はなにもできなかった。かなしかった。くやしかった。


母に「痴漢された…」と話すと、「災難だったね…」と言ってくれた。母が痴漢について語るとき、それを自然現象か何かのように言うことの意味がようやくわかった気がした。それはいつも突然襲ってきて、逃れようがないのだ。
でも、僕は、絶対に違うと思う。痴漢を自然現象のように捉えてはいけない。人間のやることだからである。人間のやることは、人間が正していけると信じたいからである。


どうして“おじさん”は無断で他人のおしりを触っても良いと判断したのだろうか。人権についての教育を受ける機会に恵まれなかったのだろうか。ショートパンツからのぞくナマ足を、OKのサインだと勘違いしたのだろうか。若い女ならば抵抗もできまいと甘く見て手を出したのだろうか。
僕には、人権がある。仕事のないときには法に触れない範囲で好きな格好をする権利があるし、合意なしにおしりを触られない権利もある。権利は、不断の努力をしないとなくなってしまう恐れがあるから、僕は怒りと悲しみにふるえながら、泣きそうになりながら、ここに自分の権利を主張するのである。


痴漢は人権侵害です。

女性と男性とでは、見える世界が違う

昨日は、『ふともも写真の世界展』に行ってきた。
大混雑で、僕は50分待ってやっと会場に入ることができた。会場に入るときに、「女性限定で足湯をやってますから、よかったらどうぞ」みたいなことを言われた。
足湯も待たなきゃ入れないのかと思ったが、全然そんなことはなくて、会場にいる人は男性ばかりで女性はごく少数だったので入りたいときに入れた。

『ふともも写真館』のことは『曖昧美少女アート展』のときに知った。『曖昧美少女アート展』のときは平日に見に行ったのでガラガラで、ゆっくりじっくり見ることができたのだが、さすがに今回は祝日なので混みあっていて、しかも僕(158cm)より大きい男の人がほとんどだから、ラッシュ時に山手線に乗るときみたいに人を無理矢理かきわけなければ作品にたどりつけず、ゆっくりじっくり見るのは難しかった。
それでも、なんとか2周して、足湯に入って、もう1周して、ポストカードを買って帰った。


僕は自撮りするの好きだから、「ふとももの見せ方がうまいなあ」「これはいいアイディアだなあ」なんて、撮る人の気持ちになって見たり、両性愛者でオタクだから「これは…いいシチュエーション…!」「これ百合じゃん…尊い…!」なんて妄想を広げたりしてたのしんでいたのだけど、たぶんそういうたのしみかたをする人は少数派だと思う。
女の子同士で来た人たちが「美しいね…」「いやらしさが全然ないね」なんて話してるのが聞こえてきたかと思うと、逆の方向から男性の声で「これめっちゃ良い!」「わかる!エロい!」なんて会話が聞こえてきたりしておかしかった。

女性と男性とでは、見える世界が違う。


僕はよく池袋に行くんだけど、池袋に行くとティッシュがもらえる。若い女(に見える人)はみんなティッシュをもらったことがあると思う。ガールズバーの求人広告がついたポケットティッシュだ。ときどき母が「ガールズバーのティッシュもらった!」って自慢してくる。ガールズバーのティッシュをもらうことは若い女に見えることの証明になると我々、つまり僕と母は考えているからである。

それと、池袋に行くとよくナンパにあう。「寿司食べに行きませんか?」とか「おねえさん、お茶しよう」とか、そういうやつ。新宿でもときどきある。僕は知らない男の人とかこわいからいつも無視して走って逃げるようにしている。
一番こわかったのは池袋のエムズで知らないおっさんに援交を持ちかけられたときである。みなさんご存知の通り池袋のエムズって狭いから走って逃げることができない。僕は顔をひきつらせながら、可能な限りおっさんを無視して急いで店を出た。エムズに一人で来る女性客なんて滅多にいないから、一人で行くとビッチだと思われるのかもしれない。処女なんですけどね。それから、池袋のエムズに行くのがちょっとこわくなってしまった。


逆に、もらえなくてくやしいものもある。秋葉原メイド喫茶のチラシである。
友達と秋葉原で遊んでいたときに客引きのメイドさんが立ってる道があって、僕達の前を歩いていく男性たちはみんな彼女からチラシをもらっていたのに僕はもらえなかった。すごくくやしかった。僕だってメイド喫茶興味あるし、メイドさんに声かけられてチラシ渡されたかったのに、女に見えるというだけの理由でもらえないのである。


女性と男性とでは、ただ街を歩いているだけでその経験の内容が違う。同じ世界で生きているはずなのに、見えるものが全然違う。そういう細々とした違いがたくさんあって、その積み重ねで世の中っていうか、“性”つまり性別とかセックスとかに対する認識が全然違ってきちゃうんだろうなって思う。

女性にとって女性のふとももは自分にもある身体の一部だが、この世のマジョリティである異性愛者の男性にかかれば女体なんてエロ以外の何物でもないのだ。すべての男性がそういう考えであるとまでは言わないが、そういうふうな価値観は社会に深く根付いていると感じる。

嫌だなあ、と思う。


僕は、女体持ちだし、実生活上女性だから、カミングアウトしてないすべての人から“女扱い”される。“女扱い”はしばしばミソジニーを含んでいるから、僕はとてもつらくなる。

僕は、もらえるものはもらう、使えるものは使う主義だから、女性限定の足湯にも入るし映画はレディースデイに見る。
でも本当は“差別的な女扱い”も“優しい女扱い”も、なくなればいいと思ってる。

僕の性自認はいつも揺れているから、「自分は女だ」と思うときもあるし「自分は女じゃない」って思うときもある。


僕は、ただ、“人間扱い”を求めている。